意訳「曹周本」


第86回
   水月庵、冷言にて塵縁を絶ち、栄国府、花火にて元宵を祝う
 さて、人々が賈母と一緒にいなくなると、襲人は春燕らにガラス灯を持たせて宝玉に迎えに寄越しました。主従らは歩きながら雑談を交わします。

 宝玉はふと芳官のことを思い出し、春燕に尋ねます。「お前の母さんは芳官の義母だろう。彼女がいなくなったのに、お前の母さんは何も言わないのかい?」 春燕は「若様はご存知ないんですわ、芳官がここにいれば毎月の扶持がもらえたからこそ、母は彼女を養女にしたんです。彼女がいなくなったら、扶持がなくなるんですもの。母がそのまま養女にしておくもんですか。でも、私たちは姉妹として仲良くしていましたので、先日も人をやって聞いてもらったら、彼女は水月庵でとても苦しい日々を送っているそうですよ。こちらのようなわけにはいきませんわ。芳官は意地っ張りで人のいいつけを聞かないもんですから、あそこの老尼は彼女にばかり水を汲ませたり、薪を割ったり、炊事をさせているそうで、芳官も今では苦しみが重なって別人のようになってしまったそうです。会いに行きたくてもできませんから、ちょっと前に、母に黙ってこっそり人をやって、食べ物や身の回りの品を届けさせましたけど、今ではどうなっているのか分かりませんわ!」 宝玉はこれを聞いて嘆息し、「お前が気をかけてくれてよかったよ。芳官がどうして邸を出されたのかは分からないけど、いつもやんちゃなところがあったから、どこかにつけ込まれる点があったのかもしれないな。私はいつも彼女のことを可愛がっていたけど、それも無駄になってしまった。彼女に苦しみと無念さを味わせてしまったんだね」。

 二人が話をしているうちに、いつしか沁芳亭までやってきました。襲人と麝月が既に来ていたので、二人は口を噤みました。襲人は「ずいぶん遠くからあなた方がおしゃべりしているのが見えたのに、どうして話をやめてしまったんです?」 宝玉は「お前たちを見かけたのにいつまでも話なんてしていられないよ。今晩はお前たちはどうして灯籠を見に来なかったんだい? 三妹妹の八仙過海はとてもいい灯籠だったよ。私は秋紋にお前たちを呼びに行かせたのに、どうして今頃になって来たんだい?」 襲人は「ええ、言われてすぐに来ようと思ったんですが、私たちの美人灯が猫に引っ掻かれて破れてしまいまして、麝月と一緒に新しく糊を貼り終えてから来たんですが、残念なことにあなたたちが戻ってきてしまったんですわ。あちらの灯籠は終わったんですか? ご隠居様と奥様は?」 宝玉は「みんな帰ったよ。明日はまた花火を見るからね。お前たち二人も早いところ手はずを整えて、明日の夜は一緒に見に行こうじゃないか」。 麝月は「よしてよ。今晩の灯籠だって見ていないのに、明日の夜なんて何が起きて見られなくなるか分かったもんじゃありませんわ」。 襲人は「今晩は秋紋と碧痕が見に行ったんだから、明日は二人に留守番させて、私たちはさっさと晩ご飯を済ませて見に行くっているのはどう?」 麝月は笑って「じゃあ、私たちも思いっきり遊びましょうか。でも秋紋と碧痕がちゃんと留守番せずにこっそり抜け出したりはしないかしら。若様が戻ってきた時に布団も冷たく、お湯も沸いていなかったらどうしましょう?」 襲人はちょっと考えて「いいわ、やっぱりあんたたちみんなで行きなさいよ。明日は私が留守番するのが正しいわね。私もやかましい遊びはあまり好きじゃないし、家にいた方が静かでいいわ」。 宝玉は「お前も行こうよ。何も一日中修行僧みたいにしていることはないじゃないか。明日一晩ぐらい、私がいい加減に寝たからってどうだっていうのさ! 構わずにおいでよ」。 襲人は口では「はい」と答えたものの、心はすっきりしませんでした。


 宝玉は一晩思案し、十五日のこの日は早々に起きました。そして襲人に「今日は元宵節だから北府(北静王府)に行ってくるよ」と言って、賈母と王夫人のところにも告げに行きます。王夫人は「今日は街でも踊りや灯籠が出て、人も車馬も多くて混み合っているから、李貴たちにも付いていってもらうんだよ。馬から落ちたり、転んで怪我をしたりしないようにね。遊びに行くんじゃないんだから」。 襲人らは急ぎ宝玉の衣冠を整えてやりました。李貴らは宝玉が馬に乗るのを手助けし、後ろには焙茗、掃紅、墨雨、鋤葯らの小者が付いて、馬を走らせて北府の門前に到着しました。

 宝玉は馬を下りると、「北府で宴を開いてくださるもしれないから、お前たちは戻っていいよ。焙茗だけ残ってもらえれば大丈夫だから」と申し付けます。李貴は笑って「若様は街の踊りや灯籠を見たいもんだから、私たちに先に帰れって言うんでしょう。もし腰や足を痛められたら、私たちが怠慢だからってお目玉を食らうんですからな。やはり、ここで待っていることにしますよ」。 宝玉は「私も大きくなったんだし、転んで怪我なんかしないさ。ちょっと踊りや灯籠を見たところで何も起こりっこないよ。こんなふうに大勢に取り巻かれている上に、街では迎神賽会(神迎えの神事)が行われて、馬に乗るわけにもいかないんだから、どうやって見物しろって言うのさ? お前たちもめいめいに遊んできなよ。私もすぐに戻るからさ」。  それでも李貴は承知しないため、ついに宝玉は頼み込んで「ねえ、私はなかなか出て来られないんだよ。それに今日は元宵節で、街は踊りや灯籠、迎神賽会で賑わっているのに私は見ちゃいけないのかい? 焙茗が残っていれば間違いは起きないよ。あんたたちは家に帰って休めるんだからいいじゃないか」。 李貴はこれを聞くと可哀想に思い、また、遊びに行きたいと思っていた鋤葯たちも加担して言います。「若様にも自由に町の灯籠を見てもらいましょうよ。家に縛りつけておくのもあんまりじゃありませんか」。 焙茗も李貴に「午後、もし若様が無事に帰れなかったら、私がお咎めを受けますよ」と請け負ったため、李貴はいかんともしがたく、「若様も早く帰ってきてください。私たちにそそのかされたなんて言わないでくださいよ。灯籠を見るときは遠くからにして、人にぶつかられたりしないように」と念を入れて申し付けます。また、焙茗に「これもみんな、お前が日頃からそそのかしているからだ。しっかりとお仕えして、もし何かあったらただじゃ済まないんだからな!」と叱りつけてから、他の者と一緒に去っていきました。

【補注】徐煕と黄荃
ともに五代十国時代を代表する花鳥画家。黄荃は力強い輪郭を描き色彩を施す技法で精細華麗な画風(黄氏体)、徐煕は墨の濃淡を主体に淡彩を添える技法で野趣に富む画風(徐氏体)で花鳥画の二大様式とされ、「黄家は富貴、徐煕は野逸」といわれます。
 さて、宝玉は北府に入り、北静王に拝謁しました。北静王は彼を引き寄せて側に座らせ、「久しぶり、また背が伸びたね」と言って、人に命じて白檀の扇子を持って来させました。表面には南唐の徐煕(じょき)の筆になる花鳥が描かれています。北静王が「この扇はどうだい?」と言うと、宝玉はこれを受け取って仔細に眺め、「徐煕の真蹟がまだ存在していたのですか? 落墨(筆下ろし)は独特で、筆端には払雲の気風があり、筆勢には風格があり、古今の絶筆(最高傑作)といえましょう。賢王はどこでこれを得られたのです?」 北静王は「これは東国のある国王が贈ってよこしたもので、他にはどこにもないだろうね。気に入ってくれたなら君に贈ろう。徐煕の画風は野逸で、黄荃(こうせん)よりずっと優れている。宋の太宗もかつて『花果の妙、我独り徐煕ありきを知る』と言っているが、いわゆる知音の論というやつだね。君が野逸の人を好んで黄家の富貴を好まないことは知っているから、君にあげれば、物もその場所を得たことになるだろう」。 宝玉は身を起こして礼を述べ、いとまを告げようとしますが、北静王はこれを留めて宴に出てもらおうとします。宝玉が「今日は元宵の佳節で、お断りするのは失礼ですが、祖母が寺院に香をあげに行きたがっておりますので、日を改めて御馳走になります」と言うので、北静王もそれまでにしました。

 宝玉は辞して出てきて馬に乗り、焙茗に北門を出るように言います。焙茗はおやっと思って尋ねます。「若様は灯籠を見に行くのじゃなかったんですか? 北門外には綺麗な灯なんてありませんよ」。 宝玉は「いいから水月庵に行くんだ。用があるんだから」。 焙茗は「水月庵では尼さんたちが蓮花灯(蓮の花の形をした提灯)をいくつか作るだけですし、行かないほうがいいですよ」。 宝玉は取り合わず、馬に乗ると風のように走り出します。

 焙茗は急いで両の鞭を加え、大声で「若様、ごゆっくり、ふりおとされないように!」と叫びます。

 主従二人はまっすぐ北門を出て馬を駆け、水月庵に到着しました。焙茗は馬の後ろから尋ね、「若様はまたどこかの姐姐を弔おうっていうんですか? でしたら香炉を借りてきますけど」。 宝玉は笑いをこらえきれずに「何を馬鹿なことを。どうしてまた弔いをしなくちゃいけないんだ? 本当のことを言おう。芳官姐姐はまだここにいるんだろう? 庵内にほかの尼さんたちがいるか見てきてくれないか?」

 焙茗はようやく分かって、庵の中に入り、すぐに出てきて言いました。「尼さんたちは皆、町に読経に出かけており、芳官姐姐が庵堂で留守居をしています。若様が来ていると言ったのに、どうしても出てこようとしないんですよ。どうぞお入りください」。

 宝玉は庵内に人がいないと聞いて、大胆に入っていきました。厨房に行くと一人の小尼がおり、顔は黄色く肌はこけ、両目は鋭い光を放っています。宝玉は急ぎ礼をして「小師父にお伺いします。半年前ここに来た小尼で芳官と申す者はどこにおりましょう?」 小尼は何も答えません。焙茗は「若様はどうしてお分かりになりませんので? 彼女が芳官姐姐じゃありませんか?」 宝玉は慌てて両手で目をこすり、じっと見てようやく見分けがつきました。なんとこの人こそ見覚えのある芳官であり、破れた袈裟を着て、すっかり痩せて黒くなっていました。宝玉に取り合おうとせず、ただ目を大きく見開いて、冷たく見つめています。

 宝玉は焙茗が前にいることにも構わず、急ぎ彼女の手を取って「私がお前をこんなにしてしまったんだ。どうしてこんな有様になってしまったんだい?」 芳官は頭を起こして手を払い落とし、冷たく言います。「私がみすぼらしいとおっしゃるんですか? でも、ここはとてもきれいな所だと思いますよ」。 宝玉は「お前の受けた苦しみは私も知っている。舞添えを食わせてしまったけど、何とか手助けをさせてもらえないだろうか?」 芳官は冷笑して「私は苦しみを受けるべくして生まれたんです。それでこそ潔白無罪と言えましょう。手助けなんか要りませんわ」。 宝玉は「お前はまだ小さいんだし、私がきっと罪を晴らして実家に戻してやろうじゃないか」。 芳官は冷たく「こちらの地獄はあちらの地獄よりよほどましですわ。今私はこちらの地獄で心安らかに死を待っています。どうしてあちらの地獄に送り返そうとするのです?」 宝玉は彼女の志が固いのを見て挽回は無理と知り、ついに泣き出して懇願します。「芳官、お前はもともと活発ないい子だったじゃないか。私が至らないばっかりにお前にこんな屈辱と苦しみを味あわせてしまったんだ! 戻って再び広い世界を見ればいいじゃないか。どうして一生苦しまなくちゃいけないんだい?」 芳官は冷たく「私は金銭、富貴、汚濁、嫉妬、人情の移ろいやすさを見てきました! さらに何を見ろとおっしゃるのでしょう?」 宝玉はこれを聞いてしばし呆然となり、やっと「お前が尼になる意思を変えないのなら、私も無理は言わない。ただ、お前にはもっと静かな寺院に移ってほしいんだ。もうこんな苦難を味あわないようになれば、私も自分の罪の一部を償うことができるんだから」といって涙を雨のように流します。芳官は「ご心配には及びません。もし慈悲を施したいというのでしたら、どうか地蔵庵に行って蕊官と藕官を救ってやってください。彼女たちは私より苦しんでいますわ!二人は塵縁が絶てず、元々は一時の怒りにまかせて出家したにすぎません。二人が還俗に同意するのでしたら、実家にはまだ寄るべき父母がいますし、私も安心して修行に励むことができますわ」。 宝玉はいかんともできず、ただ「安心していいよ。明日にも人をやって彼女たちの罪を晴らさせるから。お前は体を大切にしておくれ。ここにいくらか銀子を持ってきたから、取っておいて使ってくれ!」と言いますが、芳官は見もせずに禅房に戻ってしまいました。宝玉は留めることもできず、心中ぽっかり穴があいたようで、やむなく焙茗と一緒に街に戻るのでした。


 宝玉が戻って賈母と王夫人に会いにいくと、賈母らは酒を飲みながら戯曲を見ていました。彼の元気のないのを見て、疲れたんだろうと思い、「早く部屋に戻って横になりなさい。夜は花火を見るんだから」。 宝玉はいとまを告げて部屋に戻り、ベッドで横になりますが、何度も寝返りを打ち、ため息をつきました。

 襲人はいぶかしく思い、彼が北府でいやな思いをしたのか、或いは何か悪口を言われたのかと心中疑いが晴れません。そこで焙茗を呼んで「若様は北府で何か嫌な思いをしたの?」 焙茗は「何も嫌な思いなんでしていませんよ。扇子をいただいてきました」。 襲人は「じゃあ、どうして戻ってくるなりため息ばかりついているのかしら?」 焙茗はとっさに機転を利かして「きっと馬に乗って疲れてしまい、街の灯籠が見られなかったからでしょう」。 襲人はちょっと考え、それもそうかと思ってそのまま不問としました。

 宝玉がベッドでぼーっとしていると、ふいに麝月が知らせを告げます。「廊下に芸の若様が人を連れてお越しで、福建潭州の水仙を二鉢頂戴しました」。 宝玉は頭を持ち上げて「中に入ってもらって!」 襲人らは急ぎ賈芸に部屋の中で入ってもらい、お茶を注ぎ、花を卓上に置くと、宝玉が出てきました。

 賈芸は急ぎ立ち上がって「二叔大人(たいじん)に新年のあいさつを申し上げます」と言って跪きます。宝玉は涙が出るほど笑い、引き起こして「こいつめ、まだそんなふうに呼ぶんだね。『二叔』はともかく、何で『大人』を加えるんだい。この前は『父親大人』なんて呼んで私をしばらく笑わしたっけ。私が何歳だっていうのさ? 『大人』なんて使えるかい。今後はそんなふうに呼んじゃいけないよ」。 賈芸は笑って「そうは言っても、叔父上は私をとても可愛がってくれますし、私はただ叔父上への礼儀として敬っているのですよ」。 宝玉は「それまでそれまで。今後はでたらめな呼び方は許さないよ」。 賈芸は立ち上がってはいと答えました。

 宝玉は「この前は紅梅の花をいただいたのに、今日はまた水仙の花を届けてくれたんだね」。 賈芸は「正月はよい花がないのですが、水仙がこのように見事に花をつけました。この二鉢は大きくて香りも良く、特に福建潭州から取り寄せたものです。叔父上、いかがですか?」 宝玉は「水仙は凌波仙人(水上に舞う仙人)とも言われるけど、この優雅さ、高潔さから称されたものだね。よく遠方から持ってきてくれたね」と言って机の上の花を見ると、花びらの一つ一つが濃緑色の葉や白い小石に映えて、実に上品で美しく、芳香を放っています。思わずうっとりとし、顔にも喜色が現れるのでした。

 襲人はこれを見てとても喜び、賈芸に「この前芸の若様が送ってくれた紅梅は、廊下に置いたところ、半月余りも咲いていて、部屋の中でも香りを嗅ぐことができましたわ」。 賈芸もこれを聞いて喜び、「お姉様たちがお嫌でなければ、春になったらまたよい花を持って参りましょう。一つには叔父上が御覧になって心をのびやかにしていただくため、二つにはお姉様たちにも気を紛らわしていただくためです」。 襲人は聞くなり笑って「どうしましょう、これでは今いただいたのに、また芸の若様に花を催促しているみたいですわ」。 賈芸は笑って「どうってことはないですよ。お届けしても叔父上とお姉様がお気に召さなければ意味がありませんから」。

 宝玉は賈芸に芳官の件を頼もうと思っていたので、立ち上がって「今日は元宵節、外ではもう花火が上がるんじゃないかな。早く見に行こうよ!」と言い、また襲人に「今日の花火は素晴らしいから、しばらくしたらお前達も皆おいでよ。みんなでじっくりと見よう」と言って、賈芸をつれて怡紅院を出ました。

 宝玉は蕊官と藕官のことを賈芸に話し、彼女らを救うすべを相談しました。賈芸はしばし考え、「明日地蔵庵に行き、老尼らに何両かの銀子をつかませれば罪を晴らせないことはないでしょう。しかし、請け負ってきた後はどうなさいます?」 宝玉は「船を雇って二人に妥当な者をつけ、実家に送り返すさ」。 賈芸は「もし実家に行きたがらない時は?」 宝玉は考えて「彼女たちにどうしたいのか聞いてくれよ。もう辛い思いをさせないように、あんたと焙茗でよく考えてくれ。銀子は私が用意するから」。 また、賈芸に命じて、別に一人を雇って、水月庵の尼たちの炊事をさせ、小ぎれいな寺を探して芳官にそこで修行をさせるように言います。賈芸は一つ一つはいと答えました。さらに宝玉は、「事が事だから芹児にも一言かけてくれ。他の人には言わないようにって。もし人が要るのから、私が銀子を使って買い入れるから」。 賈芸はそれに答え、「叔父上、ご安心を。もし上手くいかなければお目にはかかれませんから」と言って去るのでした。


 さて、宝玉が正庁にやってくると、廊下の軒下には既に人が大勢集まっていました。賈母は豹皮の敷き布団の上にもたれ、薛未亡人、李氏、劉婆さん、邢・王夫人らの席は狼の皮布団でした。地面には真っ赤な絨毯が敷かれ、照明(落地灯)が設えられています。

 煕鳳は宝玉が来たのを見ると、急ぎ彼を賈母の側に引っ張っていき、「御隠居様があなたのことを心配していたのよ」と言います。

 賈母は「どうしたんだい? 街に人が多くてびっくりしたのかい? 琥珀と珍珠にお前を呼びに行かせたんだよ」。 宝玉は「何でもありません。久しく馬に乗っていなかったので、疲れたんです。少し横になったので良くなりました」。 賈母は宝玉が確かに良くなったのを見て安心し、もうやたらと出歩かないように言いました。宝玉は黛玉の側に座り、探春と話をします。

 しばらくすると賈璉と賈蓉が入ってきて、「前の部屋に大殿様、二の殿様が参られ、御隠居様の指示をお待ちになっておられます。劇を見られてから花火を上げますか、それとも今上げますか?」 賈母は「何更になったんだい?」 賈璉と賈蓉はこれに答えて「もう三更です」。 賈母は「ここ何日かは疲れたからね。元宵の団子も食べたし、早いところ花火を打ち上げてしまおう」。

 しばらくたつと花火が一斉に打ち上げられました。その花火は献上されたものも、煕鳳が技師に作られたものもあります。満天に星のように煌めき、多様な彩りが乱れ散ります。仕掛け花火の火が放たれ、「仙女散花」「游龍戯鳳」「金蝉脱殻」「孔雀開屏」「牛郎織女(牽牛と織姫)」「哪吒閙海(哪吒が海を騒がす)」「嫦娥奔月(嫦娥、月に奔る)」等が繰り広げられ、巧みさと美しさを競います。続いてパンパンという爆竹の音と共に硝煙が立ちこめます。賑やかさはこの上なく、両府の内外では喜びに沸く声が尽きません。

 劉婆さんは思わず手を合わせ、何度も「阿弥陀仏、今宵の花火は本当に豪勢ですなぁ、奥様だからこそできたのでしょうな」。 煕鳳は「お婆ちゃん、褒めないでよ。しばらくしたらまた御隠居様が、鳳ちゃんは全然なっていないって言うわ。人を楽しませて、私は御隠居様の話を辛抱して、何が豪勢なもんですか」。 賈母は笑って「鳳ちゃんめ、またそんなことを。この花火が豪勢と言えるものかい。小さい時に私の家で上げた花火は本当に豪勢というべきものだったよ。満天に龍と獅子が争うように乱れてね。私が飛び上がって喜んでいると、側づきの侍女たちが爆竹を持ってきてね、遊ぶうちに手の中で爆発してしまって、今でも指の頭に傷が残っているよ」。

 ふと宝玉のことを思い出し、あわてて「宝玉は? ちょっとの間にまたどこに行ってしまったんだい?」 見ると果たして宝玉はいないし、史湘雲までも見えなくなっていました。煕鳳は「きっと爆竹を取りに行ったんだわ。御隠居様、ご安心を。私が人をやって探させますから」。

【補注】鉄扇公主
小説「西遊記」の登場人物で、日本では羅刹女の名前で知られます。火焔山の炎を消すために芭蕉扇を借りるくだりで、孫悟空が鉄扇公主の胃の中に入って暴れ回る場面があります。
 すぐに二人は見つかりましたが、宝玉の両手は黒く汚れ、顔も真っ黒、史湘雲は二つの爆竹を手に持っていました。一同は笑いが止まらず、黛玉は指さして「二人の乞食がやってきたわ」。 賈母ははらはらしていたが、この様子を見ると笑い出して、「またやんちゃをしに行ったんだね。妹妹も連れていくなんて。おとなしく座っていないと、お前の父さんを呼んできてぶってもらうよ」。 宝玉は「爆竹を二つ取って戻るはずだったんだけど、雲妹妹も来ていたので、少し余計に遊んでしまったんです」。 賈母は「男の子達にやらせなよ。もし手をやけどしたら大変だから」。 煕鳳は「差し支えないですわ。私と一緒にやりましょう」と言って人を呼び、爆竹を持ってこさせると、宝玉と湘雲を連れて外の穿堂の前でやり始めます。賈母たちも皆見に来ました。三人は各々が二つの爆竹に火をつけてぱっと逃げます。宝釵は湘雲を捕まえて「あなたってちっとも怖がらないのね。それは男の子たちがやるものよ」。 黛玉も笑って「この子ったら月宮に行かないほかはどんな事でもやっちゃうのね。彼女が女の子だからまだしも、もし男の子だったら孫悟空ばりに、鉄扇公主のお腹の中で大暴れしちゃうところだわ」と言ったので一同は大笑いです。


 花火が終わると賈母は祝儀をばらまき、「今日の元宵節で正月も終わりだ。私たちも疲れたから戻るとしよう」と言って、各部屋の侍女を呼び、親族の奥方、劉婆さんと各部屋の娘たちを帰らせます。湘雲は黛玉のところで休みます。みな灯籠を掲げて談笑しながら帰りました。

 麝月と秋紋は宝玉を迎えに来ました。宝玉は「襲人は花火を見に来なかったのかい? 廊下に立っていたように見えたけど、ちょっとしたらいなくなったんだ」。 麝月は「すぐに帰ってしまいましたわ。若様が戻った時に人がいないのも何だし、侍女見習たちに留守居をさせたのでは心配だからって」。 宝玉は嘆息して「あの人もひどく気を回すんだね。真っ暗だし、一人じゃ大変なんじゃないか」。 麝月は「今日は十五夜、月はきれいですよ。歩き馴れた道ですもの、何も心配ありませんよ」。 秋紋は「幽霊のふりをして途中でびっくりさせてやるといいわ」。 主従らは談笑しながら帰ります。

 宝玉は、芳官が寺院で苦しみを受けてすっかり痩せてしまい、よく見ないと分からないほどになっていたことを思い出しました。あの庵の老尼は貪欲で、出家人としての慈悲の心なんか持っていない。あんな奴らが出家しても仏門聖地を汚すだけだ。また、襲人が一人で帰ったことに思いを巡らせ、何か不測の事態にあったらどうしようか、彼女もうっかりなところがあるからな。こう思うと、足取りは更に速くなり、談笑もやめてしまうのでした。

 麝月たちは宝玉が速く歩き出したのを見ると、慌ててこれに従います。秋紋は笑って「若様は幽霊が怖いの? 幽霊の話をしたら途端に速く歩き出すなんて。晴雯さんも今は幽霊になってしまったから、彼女が捕まえにくるのが怖いんでしょう?」とからかったので、宝玉はハハハと大笑い。一同も皆笑い始め、宝玉は晴雯のことを思い出しました。

 襲人はというと、部屋の老婆や侍女見習だけでは心許なく、宝玉が戻った時にお茶が出せないようでは困るので、麝月たちに宝玉と一緒に帰るように申しつけ、自分はちょっと花火を見ただけで帰ることにしたのでした。見れば満月が出たり隠れたりしています。今晩の月はとても綺麗だし、月明かりで小道を戻るとしましょう。そう思ってぶらぶら歩いていると、とある大岩の後ろで人の話す声が聞こえます。襲人は思うのでした。きっとどこかの部屋づきの子たちが内緒話をしているんだわ。こっそり聞いて明日彼女たちをからかってやりましょう。しばらくしたら幽霊のまねをしてびっくりさせてやろうっと。

 聞けば、一人は女の子の声で「かんざしとハンカチを頂き、何と御礼を申し上げたらいいんでしょう」。 もう一人は男で、こっそりと答えて「好姐姐、代わりに同心如意の香り袋を編んでくれないか! 私たちは死ぬも生きるも心は一緒。それを私の心に留めておくんだ」。 襲人はびっくりしてどうしていいか分からず、こう思うのでした。これは先ほど水仙を持ってきた芸二さんと、煕鳳さんの部屋の小紅の声に違いない。なるほど、ここ何日か園内をうろうろしていたのは、このためだったのか。心臓はドキドキと早打ちします。思えば、芸二さんはよく怡紅院に出入りして、宝玉さんと仲がよい。小紅は林之孝の娘で、怡紅院を出て今は煕鳳さんの寵愛する侍女だ。もし言いふらしたりすれば煕鳳さんに恥をかかせることになるし、私たちの顔も丸つぶれだ。林のおかみさんにだって恨まれるに違いない。ここは知らないふりをしてこっそり離れるのがいいわね、と別の小道を選んでそろりそろりと三歩を二歩にして抜け出すのでした。

 まだらな林を抜けると、思わず石につまずいて転び、「あ痛っ!」と声を出してしまいました。

 しばらくすると小紅が別の道をやってきて、襲人を見ると慌てて「姐姐じゃないですか。どうして一人でいらっしゃったんです? どこかにつまずいたのでは?」 襲人は「ちょっと花火を見に行きたいと思って、ここまで来たら石につまずいてしまったの。ちょうど妹妹が来てくれて助かったわ」。 小紅は襲人を助け起こし、「姐姐痛みますか? 人を呼んできますから、背負ってもらって帰りましょう」。 襲人は「何でもないわ。あなたの手を借りてゆっくりと歩きましょう」。 小紅に支えられながら、襲人は痛みをこらえて歩くのでした。

 小紅は「今日の花火は本当によかったですわ。私は園で見ました。私の母ったら見に行きたいものだから、私にしばらくお勤めを替わってくれって言うので、母を送ってきたところだんです」。 襲人は「妹妹は元宵節にもゆっくり休んでいられないのね。まだ園を見回っているなんて。二の奥様もあんたを褒めるわけだわ!」 小紅は「おっしゃらないで。毛嫌いされていないだけのことですよ。姐姐はきっと筋を痛めたに違いないわ。二の奥様のところに打ち身に効く薬酒がありますから、あとで姐姐に持ってきますわ」。 襲人は「妹妹には面倒をかけるわね」。

 二人はまっすぐ怡紅院に戻りました。婆やたちは大慌てで「お嬢様、どうしました?」 襲人は「何でもないの。若様が使うお湯は大丈夫? お茶はある?」 婆やたちは笑って「どれも大丈夫です。私たちも死人じゃないんですから」。 襲人が足を引きずっているので、転んで怪我をしたことを知り、婆やたちはすぐにお湯を汲んで湿布をし、酒でマッサージをします。小紅も側で手を貸していましたが、微笑しながら「やっぱり二の奥様のところの薬酒がいいわ、私取ってきます」。 襲人は礼を言いつつ、「婆やさんたちに取りに行かせましょう。遠いし、園の中は冷えるもの。妹妹にまた持ってきてもらうなんてできないわ」と言って、二人の婆やに小紅について薬酒を取りに行かせました。小紅は「よく養生してくださいね。明日また見にきます」と言って、二人の婆やとともに帰りました。

 しばらくして婆やたちが薬酒を持って戻り、火で温め、足を揉んでいるところに宝玉一行が戻ってきました。婆やたちが襲人を囲んでいるのを見て、つまずいて怪我をしたことを知り、慌てて尋ねます。「転んだの? どこを怪我したの?」 襲人は「脚の甲をひねっただけで大したことはないです。どうぞお茶を。布団も暖まっていますし、麝月にお湯を汲んでもらって顔を洗ってください」。 宝玉は嘆じて「お前は自分が怪我をしたというのに、人の心配ばっかりするんだね」と言って、自ら襲人の脚を揉もうとします。襲人は「あなたには出来ませんわ! お茶を飲んで洗顔してお休み下さい。明日起きられなかったら笑われますよ」。 宝玉はなおも「痛みはよくなった? 明日医者に診てもらおう」。

 秋紋が熱いお茶をついできたので、宝玉は二口飲みます。麝月がお湯を持ってきて顔を洗わせ、寝るように催促しますが、宝玉はもとより従いません。襲人が包帯をして、春燕らに扶けられて部屋で休むのを見てから床につきました。しかし、襲人が心配だし、また芳官のことを思って、二更ほどの間寝返りをうってから、ようやく眠りました。

 襲人は足の筋をひねっただけで、治療をしたお陰で2日目にはどうにか歩けるようになりました。宝玉は安心し、蕊官と藕官の件で焙茗を探しに行きました。詳しく知りたい方は次回をお聞きください。