意訳「曹周本」


第119回
   故里に返りて湘江の水逝き楚雲飛ぶ 真顔を識りて頑石は紅楼夢を了却(りょうきゃく=成し終える)す
 さて、衛若蘭一行は旅路を急ぎ、程なく京城に到着しました。若蘭はまず馮紫英を訪ねました。馮家も既に没落し、転居していましたが、何とかこれを探し当て、ようやく宝玉が宗学を辞めさせられ、北静王の援助で西山に隠遁したことを知りました。ついに馮紫英と共に宝玉を訪ねることができました。

 宝玉は、旧友の二人が訪ねてきたのでとても喜び、急いで前日に絵を売った金で焙茗に肉と魚を買ってくるよう伝えました。若蘭は、「そう慌てないで。まずは君に知らせることがあるんだ!」と言って、狼牙山で偶然、湘雲と出会ったことを詳しく説明しました。宝玉はこれを聞くと、「彼女は今どこに?」 若蘭は「見てごらん、今入ってくるから!」

 そして小さい駕籠が一つ、門を入って来ました。宝玉は急いで駆け寄り、駕籠の布を上げて叫びます。「雲妹妹!」 史湘雲はか細い声で、「愛しいお兄様(噯哥哥)!」と叫び、頭から飛び出してきました。宝玉は湘雲を受け止めますが、顔は土気色で、息も絶え絶えでしたので、彼女を抱いて急ぎ草堂へと入りました。

 史湘雲は昏倒しており、宝玉は慌てて呼びかけます。しばらくすると湘雲はようやく目を覚まし、目を開けて尋ねます。「宝姐姐は?」 宝玉が「昨年、病気で逝ってしまったよ」と言うと、湘雲の頬には涙が流れました。

 またしばらくして、湘雲は気力を振り絞り、懐から一対の金麒麟を取り出して宝玉の前に差し出し、涙交じりに喘ぎながら、「お兄様、見て、金、金麒麟よ。私、なくさなかったわ。私、身に付けて、ちゃんと身に付けて戻ってきたから、あなたに、あなたに!」と言うと宝玉に悲しげに笑いかけ、ゆっくりと両眼を閉じました。宝玉は湘雲を抱いて力一杯揺すり、叫びます。「雲妹妹、雲妹妹! 目を覚まして、目を覚ましてくれ! 金麒麟、私たちは小さい時から一対の金麒麟だったじゃないか! 私はこの金麒麟が好きだ! もう手放さないから!」 湘雲の目がパッと開き、またゆっくりと閉じました。宝玉がどんなに叫んでも揺すっても、再び目覚めることはありませんでした。

 宝玉は全身を雷に撃たれ、天地が崩れたかの如く、ただ湘雲を抱いて右往左往し、大声で叫びました。「天よ、天よ! 終わりだ、終わりだ! もうお前なんて見たくない、こんな世の中なんてもうたくさんだ!」

 衛若蘭と馮紫英は急いで宝玉を慰め、「史妹妹は死んでしまったんだ。安心して逝かせてやらないと」。

 宝玉は涙を見せずにぶつぶつとつぶやきます。「金麒麟よ、金麒麟よ。私はもう二度とこの金麒麟を放さないぞ!」と言って湘雲を抱いて放そうとしません。

 麝月と焙茗も急いで慰め、「二の若様、どうか落ち着いてください! 雲のお嬢様の体が温かいうちに清めさせていただきます」と言って、お湯を運んで来ました。宝玉は一同に説得され、ようやく湘雲をベッドの上に置きました。

 馮紫英と衛若蘭は宝玉を引き離し、麝月が湘雲の道衣を着替えさせ、体を洗って身仕度を整えました。衛若蘭は人を遣って棺木を運び込ませ、一方で、陰陽先生に見てもらって即日入棺させ、また、銀子を出して湘雲の葬儀の手配をしました。さらに数日間山に留まり、去り際には宝玉に百両の銀子を渡しました。宝玉は気にする様子もなく、ただ拱手の礼をし、馬鹿笑いをして別れました。衛若蘭は嘆息し、首を振って去りました。

 史湘雲が亡くなってからというもの、宝玉は悲嘆に暮れ、終日打ちひしがれて元気がなく、絵も描かず、凧も作らず、話もせず、いつも外出してあちこちほっつき歩き、食事もしたりしなかったりでした。時には襲人が訪ねてきて、金銭や食事を届けてくれることもありました。焙茗を連れ回すこともありました。こうして半年が過ぎると、宝玉の情緒もようやく少し安定してきました。

 ある日、宝玉がぶらぶらと北門に出かけると、春聯(しゅんれん:新年に門や入口の戸に張るめでたい対聯)を売っている者がおり、赤紙に書いて地面に並べてありました。わずかの間に何枚か売れました。

 一人の若い婦人が買おうとしますが、小さい子供を抱いていたので、地面の聯を指さして、「その一枚をちょうだい。私が買ったわよ」。 しかし、別の年若い男が先に手に取ったので二人で争い始め、互いに譲ろうとしません。春聯を売る男は男性に渡しましたが、婦人は納得せず、傍らでぶつぶつと文句を言っています。宝玉は傍らでこれを眺め、思わずハハハと笑い出し、「こんな春聯に争う価値なんかないさ! 紙と筆を用意してくれたら私がすぐに十枚余りも書いてあげるよ」。 春聯売りはこれを聞くと逆上し、宝玉を捉まえて怒鳴りつけました。「お前みたいな貧乏でうだつの上がらない奴が春聯を書くだって? 文字の一つも知らないくせにデタラメを言いおって!」

 男が引っ張ると、宝玉の綿の服には大きな穴が開きました。その婦人はこれを見るとかっとなり、春聯売りを指さして、「あんた、どうしてその人の服を破いたりするんだい? それに、どうしてその人が春聯を書けないなんて言えるんだい? 私、やっぱりその人に書いてもらうよ。あんたより十倍も良いかもしれないからね!」と言って頭を返し、宝玉に頼みに来ます。彼女は宝玉にひどく見覚えがあり、しげしげと眺めると、目をぱっと見開き、びっくりして尋ねます。「もしかして栄国府の宝の二の若様では?」 宝玉も驚いて、「奥様はどうして私が宝玉だと御存知で?」 その婦人は、「やっぱり二の若様ですね。どうしてお忘れで? あの年、貴方のお屋敷の奥様の葬儀で私どもの村を通り、私が二の若様に糸を紡いでお見せしたし、その後、村外れでサツマイモを洗っていた時にもお会いしたじゃないですか?」

 宝玉は、あの二丫頭と呼ばれていた女性にこんなところで会うとは思いも寄りませんでした。よくよく見れば、整った眉にきれいな眼、高い鼻に浅い笑くぼ、確かにあの日の二丫頭だ! ついに押し黙って彼女を見つめ、一言も話せませんでした。

 春聯売りの男は、栄国府の若様と聞き、また服を引き裂いてしまったので、びっくりして慌てて片付け、煙のように立ち去り、影も形も見えなくなってしまいました。

 宝玉はようやく尋ねます。「どうして私が宝玉という名で、栄国府の者だと知っているんです?」 二丫頭はにっこり笑って、「尋ねないわけがないじゃないですか。あれだけ立派な葬儀でしたもの、誰だって寧国府、栄国府だと分かりますわ。二の若様のことはお付きの方に聞いて知りました」。 宝玉は笑って、「あなたは本当に聡明な娘さんだったんですね」。

 二丫頭はさらに、「今はもう嫁ぎましたが、家は近くにありますので、二の若様がお嫌でなければ寄っていってください!」 宝玉は頷き、彼女に付いて近くの家を訪ねました。

 見れば、家屋の前後には草花がびっしりと植えられ、薫香が漂い、色とりどりで実に鮮やかです。二丫头は門前で大声で叫びます。「あんた、早く門を開けて。お客様よ、早くお迎えしてちょうだい!」

 しばらくすると門が開き、一人の痩せた男性が出て来ました。宝玉を見るとお辞儀をして言います。「どうぞ中にお入りください!」

 宝玉が見ると、小さい庭ながら趣があり、廊下や軒下にも色鮮やかに草花が茂っています。頷いて、「ここは本当に良いところですね」。

 二丫頭は子供を抱いて寝かせにいき、服を着替え、髪を整えて戻って来て、「あの人は庭師なの。花を作って売っているので、庭には四季折々の花が咲いているんです」。 さらに、振り向いて別の男に、「お客様がいらしたのよ。早く肉とお酒を買ってきてちょうだい。こちらはあの栄国府の二の若様なのよ! 折角の機会だから、春聯を書いていただくようお願いしたのよ」。 その男ははいはいと答え、篭と酒壷を手に取って肉と酒を買いに行きました。

 二丫頭は懐からハンカチを一枚取り出して、宝玉の前に出し、「これはあの年、あなたのお屋敷の奥様が衣装を換えた時に、私どものところに落としていったものです。二丫頭が拾い、とても珍しいものではないかと思い、今までしまっていました。私にとっては、このハンカチが貴重だからというわけではなく、これを見ると二の若様が思い出されましたので、懐に入れて時々眺めていました。お屋敷は警備が厳重でしたから、若様に会いに行ったことはありません。その後、罪を犯してお屋敷が取り潰しになったと聞き、私もしばらく泣いていました。あちこち尋ねたこともありましたが、確かなことは分かりませんでした。例え分かったとしても、私が若様に会いに行くわけにはいかないわけですけど。でも、こうして縁あって二の若様にお会いすることができ、二丫頭はとても嬉しいんですよ!」 そして、宝玉が屋敷を出てからのいきさつを尋ねました。また、針を取って、先ほど引き裂かれた宝玉の服を縫い合わせました。さらに嘆息して、「まさか、あのような立派なお屋敷が一敗地に塗れるとは思いませんでしたわ。二丫頭も皆様の御苦労をお察し申し上げます」。

 宝玉は全身に暖かいものが流れ、死んだように沈んでいた心が再び動き出すのを感じ、世の中にはまだ素晴らしいものが確かに残っていたのだと思うと、思わず呆然として彼女を眺めるのでした。

 二丫頭は部屋から銀紅色(明るい朱色)の繻子織に二羽の飛燕を刺繍した香袋を持って来て、中に二錠の銀子を入れて宝玉の手に押し込み、「これは二丫頭の僅かばかりの気持ちです。二の若様がお嫌でなければお納めください!」と言って、宝玉の顔に口を近づけ、「死んでも構いません。やっと私の願いが叶うんですから」。

 宝玉は心臓が高鳴り、この激しい娘が自分を生き返らせてくれるように感じました。こんな人生にもまだ夢や希望が残っているのかと思うと、目に涙を浮かべ、ぼんやりと彼女を見つめました。その時、二丫頭は何のためらいもなく宝玉に抱きつき、唇を彼の額と顔に寄せました。宝玉は涙を流し、彼女の懐に身を委ね、その指をそっと撫でながら目を閉じました。

 こうしてしばらく時が経つと、宝玉は突然目を見開き、「私はもう行かなくては。あなたを巻き添えにし、御迷惑をおかけすることはできません!」 二丫頭は飛び起きて、「いいえ、いいえ、迷惑だなんてとんでもない! これは私が望んだことです。私は今とても幸せなんです。失望しないでください。悲しまないでください。あなたにはまだ二丫頭がいます! 私は人妻ですが、この心はあなたのもとにあるんですよ」。

 宝玉は目に涙を浮かべ、彼女に恭しく一礼して、「今日はあなたに会えてとても嬉しかったし、とても感謝しています! あなたは宝玉を生き返らせ、元気づけてくれました! でも、宝玉はあなたに迷惑をかけるわけにはいきません。これより、私も自分の道を行きます。宝玉はここであなたとお別れします」と言うと、二丫頭にもらった香袋を手に取り、ハハハと大笑いして立ち去りました。二丫頭は家の外まで追いかけ、目に涙を浮かべながら彼の人影が見えなくなるまで見送り、いつまでも名残惜しく家に戻ろうとしませんでした。


 その日、宝玉は、郊外の村をぶらついていましたが、寒さと空腹を感じました。見れば、前方に酒店の幟(のぼり)がはためいており、寒さしのぎに酒でも引っかけようと思い、店の中に入りました。上等な席は客がいっぱいで、隅っこの席を選んで座り、酒一壷と料理二品を頼んで一人で飲み始めました。と、傍らから、栄国府について話をしているのが聞こえ、思わず注意を引かれ、身を返して彼らの話をじっと聞きました。

 その男は、「貴兄は、数年前に話された寧、栄二府のことを覚えているかい? 私は女弟子を送り届けに入京した時に相知ったけど、確かに私と同族の方々だったよ」。

 宝玉が振り返って見ると、なんとそれは賈雨村で、酒を飲みながら別の者と話していました。宝玉はしばらくの間、驚きのあまり戸惑っていました。

 実は賈雨村は、人民から金品を巻き上げたかどで有罪の判決を受け、入獄していたのですが、このたび恩赦に遭い、官職を召し上げられて庶民に落とされました。出獄してようやく嬌杏に会うことができましたが、暮らすすべがなかったので、雨村はやむなく露店を出して占いをしたり、書物を売ったりしていました。この日は寒かったので、店で酒をひっかけようとしたところ、思いがけず冷子興に会ったのでした。旧友との再会を喜び、二人は酒店に入って共に酒を飲み、雑談を交わしました。よもや宝玉に聞かれているとは思いませんでした。

 その冷子興という者が尋ねます。「あの年、老先生が上京され、政の大殿様の推挙で応天府の知府となられ、ようやく官界で腕を振るわれると舅父から聞いておりました。まさかあんな変事に遭われるとは。職を失われた今、老先生は家塾の先生でもされているんですか?」 雨村は首を振ってため息をつき、「どこにも雇ってくれるところなんかなくてね。今は屋台を出して占いをしたり、書を売って暮らしているのさ」。

 冷子興は、「それもよろしいでしょう。ところで、私には今なお分からないことが一つありまして、老先生に教えてほしいんです。およそ来歴のある方はみな、天地の正邪の二気をお持ちだと、あの時おっしゃったじゃないですか。思えば、あの栄国府の政の大殿様の若君、玉を口に含んで生まれた賈宝玉様は、生まれながらにして非凡で、話しぶりや立ち居ふるまいは常人とは大きく違っていましたが、きっと天地霊異の気を持って生まれたんでしょう。どうして今になっても霊験を示さず、凡人よりもさらに落ちぶれてしまったのです?」

 雨村はこれを聞くとハハハと大笑いして、「君は一を知って二を知らないようだね。その清明霊秀の気というのは天地の正気だよ。溢れたまま落ち着く場所がなく、残忍でひねくれた邪気とかち合えば、必ずや火花を散らして撃ち合うことになる。あの賈宝玉君は正邪の二気を兼ね備えているんだ。彼の身体に正気が高まった時には、その霊秀清明で賢いさまは万億人の上に出るだろうし、邪気が高まれば、その手に負えないひねくれさは万億人の下になる。今は彼の生まれもった邪気が正気を圧倒しているために、天恩と祖徳、父母や師友の教えに背き、ひねくれて人情に外れた様になっているんだ。加えて、今や家運が衰退し、幾人かの姉妹たちも去る者は去り、亡くなる者は亡くなり、残忍でひねくれた邪気に支配されて彼は何も成すことができず、半生を無駄にしてしまい、凡人にさえ及ばぬことになってしまったのさ」。

 冷子興はさらに、「私にはまだ分かりません。もしそうだとすれば、彼が胎内から持って来たあの美しい玉はどうして霊験を示さないのです?」 雨村は笑って、「君はまだ分からないのかい? あの日、私は甄士隠先生にお会いしたんだが、先生がおっしゃるには、あの玉はそもそも俗世の物ではなく、姿を変えてこの世に生まれ変わり、幻の縁を経て、いずれ戻ることになるそうだ。しかし、賈宝玉君の邪気は全身を覆い、正気が徐々に消え去っているので、あの玉と引き離せば、いずれは疲弊困憊し、極貧に苦しむことになるんだよ。尋ねるまでもないじゃないか」。 冷子興はため息をつき、「あの玉はこの世を遍歴しても何の霊験も示さなかったと言うのですか?」 賈雨村はさらに笑って、「示さないわけがないだろう! 元の姿に戻れば、あの玉は宝玉君を通してその一生を経験したんだから、霊験あらたかに決まっているさ! 君が出会ったことのない高人隠士や文人墨客だって、天地霊秀の気を生まれ持ってきたんだぜ! 彼の経歴を記載して世に出せば、詩経や離騒(楚の屈原の作と伝えられる詩)と並ぶ名声を得られるだろうさ!」

 当の宝玉は、賈雨村がさらにとんでもないことを言い出すのではないかと思い、ついに雨村の前に進み出て、笑って言いました。「貴兄はやっと出て来られたのですね! 邪悪で人でなしの賈宝玉をまだ覚えておいででしたか?」 賈雨村はびっくりして、慌てて同席を進めます。宝玉はハハハと大声で笑い、「行きます、行きます。私は自分の道を行きます! 邪悪で人でなしで、人目を憚る賈宝玉は去ります!」と言うと、袖を返し、馬鹿笑いをして店から出ていきました。これより、宝玉はしばらく姿を消したのでした。

 そして、宝玉は家の中で絵を描いたり、歌本を書いたり、往時の事やこれまでに出会った素晴らしき数多の女性たちのことを書き留めました。時にはあの玉を取り出してしげしげと眺め、こう言うのでした。「私が経験したこれらの事をお前の表面に記録するから、お前が世に伝えておくれ。それでこそ、お前が姿を変えてこの世に生まれ変わり、私と共にこれらを経験した甲斐があったというものだろう」。

 今では宝玉は、焙茗と麝月に対して非常に優しくなり、いつも二人に話を聞いてもらったり、絵や書物を売ったお金で酒の肴を作り、酒を飲ませていました。さらに、「料理は美味しいかい?」と尋ねるので、焙茗と麝月は宝玉がこのところあまりに低姿勢でまめまめしくなったことを訝しがるのでした。

 さらに宝玉は、李紈、賈璉、薛未亡人、妙玉、芳官、藕官、蕊官、馮紫英たちをそれぞれ訪ね、宝琴、岫烟、李綺たちにあれこれと質問をしました。一同は宝玉にもっと気晴らしに出向いてくるよう勧め、宝玉ははいはいと答えました。

 その日、宝玉は遊びに出かけ、どのぐらい歩いたのか、どこにいるのかも分かりませんでしたが、少し疲れてひどく喉の渇きを覚えました。見れば、すぐ先に茅葺きの小屋があったので、水を飲ませてもらおうと思って入ると、中には井戸があり、その水は清く澄んでいました。宝玉が傍らの桶で水を汲んで飲むと、心から清々しく感じました。

 井戸の囲いのそばに一本の大樹があり、宝玉は疲れていたので大樹にもたれて座りこみ、知らず知らずのうちに眠ってしまいました。すると目の前に雲が立ち、霞がたなびき、白塗りの壁に囲まれたかのようでした。宝玉は思います。「ここは実に良い場所だ。行ってみよう!」

 突然、僧と道士が現れ出て、道士は僧を「茫茫大士」、僧は道士を「渺渺真人」と呼び合いました。宝玉は、この二人には見覚えがある、どこかで会ったことがあるようだ、と不思議に思うのでした。

 あれこれ考えていると、突然、僧が道士に言いました。「あのやくざものが姿を変えて生まれ変わってから既に三劫が経つというのに、今なお悟っていないようじゃ。我々が連れていった手前、今教え導いてやれば、あるいは悟りを開いて悔い改めるかもしれず、それも功徳を積むことになるだろう」。 道士は「師兄の言うとおりだ。あのやくざものが今ここにいるのだから行ってみよう」。

 二人はふらふらと向かって来て、宝玉に呼びかけます。「石兄には一別以来、つつがなかったかね? お主が娑婆に送り込まれて以来、花柳繁華の地、隆盛昌明の邦、詩礼簪纓(さんえい)の族、温柔富貴の郷を訪ね、人間の富貴、離合悲歓、興亡際会、人情の移り変わりの激しさを舐め尽くし、今や世に見捨てられた。悟りを開き、迷津から抜け出せたのであれば、私と共に大荒山に帰り、警幻のところへけりをつけに行こうじゃないか!」

 宝玉は不思議に思い、急いで一礼して、「私は姓は賈、名は宝玉と申します。お二人の仙師が私のことを石兄とお呼びになられましたが、そのいわれをお教えいただけませんでしょうか?」 僧は、「お主はそもそも、大荒山は無稽崖で女娲氏が天を補うのに無用となり、青埂峰の下に捨て置かれた石であり、後に警幻仙姑に赤霞宮に連れて行かれて神瑛侍者となった者。情によって罪を犯し、霊河の岸、三生石のほとりの絳珠仙草と深い絆を結んだのじゃ。ついには姿を変えてこの世に生まれ変わり、次第にその本性を忘れて本物の仮宝玉になったというわけじゃ。信じられないのなら、お主のその玉を見てみなされ。『通霊宝玉』という四字があるじゃろう。宝玉は、「私は口の中に玉を含んで生まれ、この玉には確かに『通霊宝玉』という四字が記されています」。 僧と道士はうなずいて、「仔細を知ったからには、悟るところがあったであろう。お主には本当のことを話すが、我ら二人は警幻に頼まれ、お主を繁華昌盛の地へ連れて行き、数々の世態人情を理解することで迷津や苦海を抜け出して改心させ、孔孟聖賢の教えを胸に仕官の道に身を委ねてもらおうとしたのじゃ。いずれは祖業を受け継ぎ、家門を再興させれば、お主の祖先である栄、寧国公の願いも叶うことになる。しかし、お主は頑迷で悟ることができず、迷津の奥深くに入り込み、天恩祖徳に背き、今なお一事も成さずに半生を無駄にしておる。見込みがないのであれば、警幻の所へお主を引き渡しに行こう!」

 宝玉はこれを聞くと、びっくりして全身に冷や汗をかき、「お二人の仙師のお話では、宝玉は真の宝玉ではなく、無用で捨て置かれた、悟りも開けぬ頑石に過ぎぬとのこと。でしたら、戻ったところで何の役に立ちましょう。ここはひとつ、私を俗人のまま留め置きいただき、気の向くまま、山や風月、庭の草花に心抱かれて暮らさせていただくのもよいのではありませんか?」 僧と道士の二人はしばらく声も出ず、首を振って、「迷津の深さがお主をそこまでにしたのじゃな! その通霊宝玉はお主と共に劫を経たのであろう?」 宝玉は、「私はそもそも俗人ですから、こんな玉などどうでもいいのです。どうぞ仙師が大荒山に持って帰ってください!」 僧と道士の二人はあっけに取られ、しばらく宝玉を見つめた後にその玉を受取り、ため息をついて、「これよりお主の身体は『通霊宝玉』と引き離されるわけじゃ。慎重に考えねばならぬぞ!」 宝玉はため息をついて、「私は愚鈍で、人間の本性も分からぬ頑石に過ぎず、この玉も私にはさして大事なものではありません。仙師が持って行ってください!」

 二人は袖を払って出発しようとしました。すると、傍らから別の僧と道士が現れ、互いに『甄士隐』と『空空道人』と呼んでいます。甄士隐は宝玉を見て大笑いし、歩み寄って、「悟られましたな! その玉を手放してこそ、真の悟りを開かれたのですな?」 茫茫大士と渺渺真人は大声で笑い出し、甄士隐に向かってうなずき、「彼はそもそもお主と縁があるのじゃから、お主が彼を導いてくだされ!」と言うと、甄士隐はうなずきます。

 甄士隠が空空道人に、「本当にこの物語を持ち帰って世に出すつもりですか?」と尋ねると、空空道人は、「彼は悟られたのだから、自ら世に伝えてもらい、あなたは彼の力になってくれればよろしい」。 甄士隠は、「空は必ずしも空にあらず、無は必ずしも無にあらず。その玉は霊物ですゆえ、きっと霊験を示すことでしょう。将来、この石が記す『紅楼夢』の書を読んでいただければ分かりましょう」。 四人は天を見上げて大笑いし、ついには歌いながら歩き出しました。

 一夢紅楼実可傷、你方唱罢我登場。
(一夢の紅楼は実に傷むべし、汝唱えれば我登場せん)

 補天無用一頑石、幻化深雷警大荒。
(補天に無用なる一頑石、深雷に幻化し大荒を警(いまし)む)

 宝玉は笑い声の中で突然目が覚め、ずっと馬鹿げた夢を見ていたように感じました。再び首にかけた『通霊宝玉』に目をやると、既になくなっており、ようやく自分が仮の宝玉であったことを悟りました。前後のことを思い返してみると、確かに紅楼の夢を見ていたように思え、思わず涙が流れ、怒りがこみあげてきました。ついに筆を取って、つらつらと長文を書き上げると、そのまま行方不明になりました。焙茗、麝月と賈璉たちはあちこち探しましたが、行方は知れませんでした。


 さて惜春は、姑蘇の花神廟寺で出家し、生活は困窮していましたが、安らぎを感じていました。ある日、黄山の文殊院を礼拝する約束を紫鵑としました。

 二人は準備が整うと、師父に別れを告げ、一路旅を急ぎ、何日もかかってようやく黄山に到着しました。石道を伝い、崖に張り付き、険阻な道を渡り、吊り梯子を引き、絶景を見ながら黄山の文殊院に到着しました。天都峰と蓮花峰の二峰は木々が青く茂り、霧海の波の中に見え隠れしていました。

 翌朝早く、惜春と紫鵑は天都峰に登りました。間もなく山頂に着くという頃、紫鵑は左側の石壁の上にいる人を指差して、惜春に言いました。「御覧になって。あそこの絶壁で薬草を採っている人がいますわ!」 惜春は頭を上げて目を凝らして眺め、びっくりして、「あの人って二のお兄様に似ていません? あの一緒に薬草を採っている人は誰かしら? 仙人のような風貌ですけど。二のお兄様は二年前に失踪して、家の者が今も探しているはずですわ!」 紫鵑はびっくりして顔を上げますが、しっかりと見る前に、二人は雲海の中に消えてしまいました。

 惜春は大声で、「二のお兄様!」と叫びますが、その声はこだまとなって虚しく山谷に響き渡り、再び静寂に包まれると、山の峰にはもう人影はありませんでした。惜春と紫鵑はしばらく叫びましたが、何も応答がなかったので、急いで山を登って探しました。二人は黄山の峰々を踏破しましたが、その者の消息は杳として知れませんでした。あの日、確かに山の峰で薬草を採っている人を見たと言う者もいましたが、それが宝玉かどうかはついに分かりませんでした。