恭王府

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 大観園のモデルとなったとも言われる清代の王府。


JTB「ワールドガイド街物語 北京・西安・敦煌」より
 もとは乾隆帝の寵臣・和坤(わこん)の私邸として1777年に建築されたもの。1799年に和坤が罪で自決させられ、王府は官に没収されました。その後、嘉慶年間に慶郡王・永璘(えいりん)が賜って慶王府となり、1851年、咸豊帝より恭親王・奕訴(えききん)が賜って恭王府となりました。
 清代の王府としてほぼ完全な形をとどめていることでも知られます。「翠錦園」と呼ばれる花園に加え、2008年8月より「銀安殿」など邸宅部についても一般公開となりました。

花園正門(ほーめいさん提供)


 入口は細い胡同に面しています。
 大理石造りの花園正門をくぐると、独楽峰・蝠池・安善堂・福字碑・邀月台・蝠庁が一直線に並んでいます。高台にある邀月台は回廊で結ばれた美しい建物で、ここから園が一望できます。邀月台の手前は滴翠岩という岩山で、秘雲洞という通路が東西に通っています。洞中には康煕帝の筆による「福」の字の刻石が飾られています(福字碑)。
 庭園南部には大きな池があり、池の中心に湖心亭が建っています。庭園北部には大戯楼や曲廊などの建物が連なり、大戯楼では不定期に京劇の公演が行われているそうです。

恭王府入口 花園正門 独楽峰
安善堂 邀月台 蝠庁(ほーめいさん提供)
湖心亭 垂花門(ほーめいさん提供) 荷花院
大戯楼(ほーめいさん提供) 院子(ほーめいさん提供)


 大観園は曹雪芹が創造した虚構であり、数多くの古典の庭園を総合したものであるとする説が大勢を占めていますが、モデルが実在するとする説もあり、これは大きく南方説と北方説に分かれます。

 南方説の代表は清代の詩人の袁枚(えんばい)であり、その著書「随園詩話」の中で「いわゆる大観園は、即ち余の随園なり」と記しています。また、明義(曹雪芹の親友であったとされる明琳のいとこ)も「其のいわゆる大観園は、即ち今の随園の古址である」と記しています。
 実は、南京で江寧織造の職にあった曹雪芹の一家が追放されたのち、隋赫徳(ずいかくとく)が後任となったのですが、彼も数年で家産没収となり、その後、袁枚が隋赫徳の所有していた隋公園(つまり曹家の花園)を買い求めて復興し、随園と称したという経緯があります。つまり、随園は曹雪芹が若き日々に慣れ親しんだ家園であったわけです。

 北方説の代表は紅学家の周汝昌氏であり、「恭王府考」(1980年)の中で、書中の記述(元春省親に要した時間や地理的描写など)から大観園は北京西北部にあるものとし、構造や建築様式などから恭王府が合致するものと考えました。
 しかし、和珅の邸宅として建てられたのは、曹雪芹の死後であるとされ、むしろ奕訴が大観園を模して花園を造成したのではないかとも言われています。

 他にも北京円明園、江寧織造府署西花園、蘇州摂政園、北京自怡園、天津水西庄などがこれまでに大観園のモデルとして挙げられています。