めぞん一刻の時代

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(1)社会情勢
大学共通一次試験
第4話「暁に鐘は鳴る」で五代君が共通一次に臨む前夜、一刻館のオルゴールが鳴り出しました(昭和56年)。
共通一次試験は昭和54年~平成3年まで実施された国公立大学入学のための統一試験。連続方式(各大学がA・B・Cいずれかの日程で定員を分けずに1回試験)・分離分割方式(募集定員を前後期に分けて2回試験)・一部私大の参加等の変化を経て現在のセンター試験に引き継がれています。
五代君は第2、3回目の共通一次を受けたわけですが、手も足も出なかったようです。
◇参考:「大学共通一次試験-Wikipedia」など

トルコ風呂
昭和59年10月にトルコ人青年が「特殊浴場に私の国の名前を使わないで欲しい」と厚生大臣に直訴します。これを受けて、特殊浴場協会はトルコ風呂の名称を自粛、代わりの名称を募り、同年12月、最終的にソープランドを統一名称にしました。
改名はめぞん一刻連載中だったため、第40話「事件」(昭和57年10月)では彩子さんがトルコ嬢だったのに対し、第103話「犬が好きPart2」(昭和60年5月)では五代君と坂本君がソープランドをハシゴしたことになっています。
ただしワイド版以降はいずれもソープランドに訂正されています。「原作がトルコだったんだから直さなくてもいいんじゃないの?」との意見もあるようですが、マンガも手塚治虫氏の「火の鳥」が叩かれたりする国際化の時代ですから、配慮すべき箇所は配慮してしかるべきでしょう。
◇参考:「トルコ風呂-Wikipedia」など

お金
原作で紙幣の柄が読みとれるのは第21話「マフ等あげます」だけ(昭和56年12月)ですが、500円硬貨の発行は昭和57年4月、新紙幣の発行(千円札:伊藤博文→夏目漱石、五千円札:聖徳太子→新渡戸稲造、一万円札:聖徳太子→福沢諭吉)は昭和59年11月ですので、いずれもこの時点では存在しませんでした(連載途中で発行されているんですが)。
アニメでは幾つかお金の描写がありますが、全て新貨幣・紙幣が使われており、特に第14話で家庭教師の時に五代君が郁子ちゃんの顔を夏目漱石、郁子の母の顔を福沢諭吉に見えていたのが印象的でした(^^;

上越新幹線
上越新幹線は昭和57年11月15日の開業ですが、工事の遅れから、当初は大宮駅を始発とする暫定開業でした。昭和60年3月に上野駅に接続し、平成2年6月に上野-東京間がつながりました。
このため、ゆかりばあちゃんが上越新幹線で帰省する時にホームで宴会が開かれていますが、原作64話「別れの18番ホーム」(昭和58年10月)では大宮駅、アニメ第70話(昭和62年8月)では上野駅が舞台でした。

円高不況
○朱美さん「へーやっぱ不景気なのねー」(第99話「バラ色の人生」)
○坂本君「いや~も~不景気で不景気で」(第120話「シャボン玉翔んだ」)

大学時代に就職に失敗し、2年の就職浪人期間を送った五代君ですが、この背景には当時の「円高不況」がありました。
バブル景気(1986年11月~1991年2月)は、1985年のプラザ合意による急激な円高・ドル安を受けて、運用資金の国内投資や政府の金融緩和がもたらした産物といわれますが、五代君が就職活動をしていた84~86年はバブル前夜の景気後退期でした。プラザ不況とも呼ばれるこの時期、製造業の衰退と国内製造産業の空洞化により不況倒産が相次ぎ、完全失業率は高度成長期以降の最高値(85年2.6%→86年2.8%)を記録しました。
◇参考:「プラザ合意-Wikipedia」など

保父
作中では「保父」とされている五代君の職業ですが、これは俗称であり、正式な国家資格としての名称は男女問わず「保母」でした。従来は女性に限定された職業だったためであり、1977(昭和52年)年に男性も保母資格を取ることができるようになったものの、五代君が就職した当時も男性の「保母」はまだ珍しかったものと思われます。その後、男性の保母も増加していき、1999年(平成11年)に児童福祉法改正に伴い、「保育士」という男女共通の名称に変わりました。
◇参考:「保育士-Wikipedia」など

(2)文化
紅白歌合戦
第22話「あなたのソバで」で、五代君と響子さんが管理人室で一緒に見た第32回NHK紅白歌合戦(1981年)。近年は生活の多様化や裏番組の影響で視聴率は低落傾向にありますが、この年の視聴率は関東74.9%、関西71.5%の隠然たる怪物番組であり、「紅白を見なければ年を越せない」というのが一般的な認識でした。
ちなみに斉藤由貴さんが「悲しみよこんにちは」で紅白に出場したのは1986年の第37回NHK紅白歌合戦(アニメはこの年の2月から放送)。
◇参考:「紅白歌合戦-Wikipedia」など

ディスコ
日本におけるディスコの歴史区分については諸説ありますが、一説には70年代後半からの第一次ブーム、バブル期前夜の86年頃からの第二次ブーム、92年頃からの第三次ブーム、となるようです。これは日本の景気とほぼ密接に連動しています。
第56話「BACHAN IN TOKIO」で五代君と響子さんは、上京したゆかり婆ちゃんに言われるままにディスコに足を運びました。この時1983年6月ですが、この時期は、ボディコンやお立ち台で第二次ディスコブームの代名詞となった「マハラジャ」の全国展開までまだ間があり、ディスコに関してはブーム狭間の衰退期に当たります。
◇参考:「ディスコ-Wikipedia」など

カラオケ
自室でカセットテープに響子さんへのメッセージを吹き込む五代君。そこへ乱入した一刻館メンバーによってカラオケ大会が開幕。第104話「とっても好きだよ」のこのエピソードは1986年初夏のこと。
カラオケの歴史は意外に古く、70年代始めに遡るそうですが、カラオケボックスが全国展開される1988年(昭和63年)頃までは飲食店や宴会場で酒のついでに楽しむものでした。
◇参考:「カラオケ-Wikipedia」など

(3)生活周辺
公衆電話
赤電話は当時一般的に使われていた公衆電話でした。例えば次のものは全て赤電話です。
○第15話「複雑夜…」で五代君が坂本君にかけた公衆電話
○第43話「坂の途中」で五代君が坂本君・小林君にかけた公衆電話
○第49話「なんて器用なの」で五代君が響子さんにかけた駅の電話
○第58話「BACHAN IN TOKIO」で婆ちゃんが使った時計坂駅前の電話
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一方、黄色電話は100円玉が併用できた公衆電話で、最も早くプッシュ式のものが使われていました。
○第103話「犬が好きPart2」で三鷹さんが響子さんにかけた喫茶店の電話
○第132話「Help Meコール」、第134話「朝まで眠れない」の各ホテルの電話
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そして、昭和57年にテレホンカードが発売され、めぞんの連載期間はカード式公衆電話(緑のプッシュ式)が急速に設置されていった時代でした。原作では次の箇所だけ登場します。
○第153話「TEL YOU SWEET」で五代君が響子さんにかけた発表会場の電話とボックス電話(五代君は10円玉でかけていますが)
なんでもNTTは平成7年に公衆電話のカード化100%を達成し、赤電話や黄色電話はその使命を終えたとのこと。

ピンク電話
第16話「桃色電話」で一刻館一階廊下にピンク電話が設置されました。
ピンク電話は制度的には公衆電話ではなく、加入者の希望により一般電話を公衆電話としても利用できるようにしたもので、レストランや喫茶店など比較的人の出入りの多い場所に設置されていました。平成元年にはカード式のピンク電話(プッシュ式)が登場しました(2023年12月に提供終了)。
なお、次のものもピンク電話だと思われます。
○第3話「勝手に聖夜」等の茶々丸の電話
○第42話「明るい五号室」で五代君が響子さんにかけたタバコ屋前の電話
○第95話「案ずるより産むが易し」の八神さんの高校の電話
○第125話「愛と哀しみの破談」等のテニススクール管理棟の電話

元日営業
第46話「願ひ事かなふ」で、五代君が元日にシャッターが閉まった商店街の前でたたずむ光景が描かれています。現在は大手スーパーをはじめとする元日営業がすっかり定着した感がありますが、80年代頃までは元日(若しくは三が日)は休業し、2日以降に初売を行うのが一般的でした。確かなことは分かりませんが、90年代後半にダイエーが元旦営業に先鞭をつけたそうです。
◇参考:「初売-Wikipedia」など

職業安定所
五代君や一の瀬氏が幾度となくお世話になった(^^; 「職安」こと、公共職業安定所ですが、1989年(平成元年)に旧労働省が愛称を一般公募し、その時に選定された「ハローワーク」が1990年(平成2年)から愛称として使われています。
◇参考:「職業安定所-Wikipedia」


(4)生活家電
洗濯機
管理人室の前に置いてある洗濯機は二槽式洗濯機。今でこそ全自動が当たり前ですが、原作終了時(1986年)で、全自動洗濯機の普及率は17%しかなかったそうです。

ポケットベル
第131話「誓いの母子星」、第135話「白昼の疑惑」でかすみさんは連絡手段としてポケットベルを使っています。「ポケットベル」はNTTの登録商標であり、一般的には「ページャー(pager)」または「無線呼び出し」といいます。当初はベルがただ鳴るだけの単純なものでしたが、かすみさんはポケットベルを見て電話をかけ直していますので、発信者の電話番号をディスプレイに表示するタイプのものを使っていたようです。
なお、1995年から女子高生を中心に個人での利用が急増し、96年には全国で1000万台を超えましたが、97年後半から携帯電話に押されて急速に衰退しました(2019年9月にサービス終了)。
◇参考:「無線呼び出し-Wikipedia」など

携帯電話
テレビ朝日系でドラマ化された時、「携帯電話もなかった頃」と紹介されていました。実際はどうだったのでしょう?
携帯電話の原型とされる自動車電話は1979年にサービスが始まっていました(東京地区)が、NTTが「ショルダーフォン」のレンタルを開始したのが1985年。文字どおり肩にかけて持ち歩く電話機で、重さ3kg、通話時間は約40分でした。
NTTが「携帯電話」のレンタル(販売はなし)を開始したのが、原作終了と同じ1987年4月。加入時に工事負担金約7万2千円+保証金10万円が必要な上、月額料金が2万3千円で、一般の人が気楽に利用することはできませんでした。1994年に携帯電話の販売が自由化され、機器の小型化と通話料金の値下げに伴い加入者は増えていきました。