1904年に王国維先生が『紅楼夢評論』を著し、『紅楼夢』を史実に基づくものと見なしました。また「作者と著作時期は主人公の名前よりも重要。今まで誰も考証しようとしなかったのは不可解なこと」と述べました。
1921年に胡適先生が『紅楼夢考証』を著し、索引派の強引にこじつけるやり方を批判しました。この批判は現在見ても的を射ています。胡適先生は『紅楼夢』の作者について考証し、『紅楼夢』の本文に曹雪芹が『紅楼夢』を編纂したと書かれているので、曹雪芹を作者と見なしました。これは大胆な仮説です。胡適先生が次に証拠として引用したのは、袁枚の『随園詩話』の中の次の部分でした。
「康煕年間、曹棟亭は江寧織造を務め・・・その子雪芹は『紅楼夢』を著し、風月繁華の盛をつぶさに記した」
我々は曹雪芹が曹棟亭(曹寅)の孫であることを知っています。しかし袁枚は「その子」が「『紅楼夢』を著した」と記しています。いったい「その子」と「曹雪芹」のいずれが間違っているのでしょうか。どちらも可能性があります。曹寅には二人の子供がありました。早逝した実子の曹顒と、養子となった曹頫です。果たして『紅楼夢』を書いたのは子の曹頫なのか、孫の曹雪芹なのか、或いは二人の合著なのか、これは大いに考察すべき問題です。なのに先入観があるので、胡適先生は勝手に「その子」を「その孫」と読み改め、曹雪芹を『紅楼夢』の作者としてしまいました。
続いて胡適先生は『紅楼夢』と曹家との関係について考証しました。これは胡適先生の一大功績といえますが、胡適先生は「曹家」と「曹雪芹」の二つの概念をごっちゃにしました。曹雪芹はもちろん曹家に属していますが、曹家にいるのは曹雪芹だけではありません。『紅楼夢』と曹家が関係があったとしても、曹雪芹が『紅楼夢』の作者だと言えるわけではないのです。
曹雪芹の親友、敦誠・敦敏・張宜泉らは曹雪芹の詩については多くを書いていますが、彼らは曹雪芹が『石頭記』または『紅楼夢』を書いたとは一言も記していません。
私達は『紅楼夢』の作者は曹雪芹ではなく、曹頫であると見ています。
1.『紅楼夢』第1回の「作者自云」に出てくる「作者」とは曹雪芹なのか?
『紅楼夢』の巻頭に「作者自云」の一段があります。この部分は内容が豊富で、「作者」の経歴、性格、著書の意図、書中の基本的内容など、殆どを包括しています。それによれば、『紅楼夢』の「作者」について以下のことが分かります。
1)作者はかつて「天子の御恩と祖先の余徳」のおかげで「綺羅を纏い」、「美食に飽きる」豪奢な生活を経験し、「態度や見識が自分より立ち勝っていた」多くの女性たちとともに生活していた。
2)作者はかつて「父母の教えに背き、師友の諫めに耳を貸さなかった」ために、「風塵に碌々として何一つ成し遂げず」、「何一つこれといった技も身につけずに半生を棒にふってしまった」。
3)後悔の気持ちを表すために、作者はその生活を「小説に編む」。その目的は天下の人々に「女性たちの中にもなかなかの人物のあること」を知ってもらうこと。また、自分のかつての「不肖」な事さえも書き出しても「自分の罪が免じられるとは思わない」。つまり『紅楼夢』とはこの「作者」が経験した豪華な生活の再現である。作者は男性であるはずで、また女性達の中で生活し、多くの「不肖」な事があったということは、作中の人物賈宝玉と酷似している。したがって作者は賈宝玉の原型であるはずである。
4)『紅楼夢』を書いた時、「作者」は生活に困窮し、「いぶせき茅の庵、縄の寝床に起き伏して」いた。
5)「作者」には人には言えない苦衷があるために「真事を隠し」、「通霊の説」を借りてこの本を記し、自分の氏名を明らかにしなかった。
書中に曹雪芹が登場するのは、「補天神話」のくだりの後で、彼が『紅楼夢』を「披閲すること十年、改刪すること五たびにして、目録を編み、章回に分け」と述べられています。しかし、『紅楼夢』の文中でも「作者」と曹雪芹とは混同されていません。
次に、曹雪芹の経歴、性格が「作者」と合致するのかどうかを見てみましょう。
曹雪芹の祖先は漢人で、彼の家は早い時期に満州旗籍に入り、皇室の「包衣」になり、「包衣」から側近の官僚に昇進しました。彼の曾祖父の曹璽、祖父の曹寅及び父の代の曹顒、曹頫らは皆「江寧織造」となり、60年余りにわたって歴任しました。雪芹の曾祖母の孫氏(曹璽の妻)は康煕帝玄燁の乳母で、祖父の曹寅は康煕帝の伴読(勉強の相手)を務めたことがあります。当時の曹家は皇帝の寵臣でした。康煕帝が曹寅、李煦(曹寅の義兄)に賜った批語から、康煕帝が曹家を格別に寵愛していたことが分かります。しかし、雍正帝が即位すると曹家は急速に没落します。雍正帝は謀略の限りを尽くして皇位を得たために、自分の政敵を非常に恨みました。曹家が家産没収の憂き目を見たのは、一つには経済的な原因、二つには他の皇子と密接な関係があったためです(周汝昌『曹雪芹伝』より)。
この時の家産没収は凄惨なもので、曹家の親戚李煦は流刑にされ、曹頫は資産・土地・家屋・奴僕をことごとく封じられて別人に与えられました。この大事件の後は、曹家は「すっからかんの大地」まではいかなくとも、もう「綺羅を纏い」「美食に飽きる」豪奢な生活は不可能となります。
曹雪芹は壬午の夜(西暦1763年)か癸未の夜(西暦1764年)頃に亡くなりました。親友の敦誠の「四十粛然太痩生」「四十年華付沓冥」との哀悼の詩があり、これより計算すると、曹雪芹は西暦1723年または1724年頃に生まれたはずで、この時曹家はまさに没落した時でした。ですから曹雪芹は「綺羅を纏い」「美食に飽きる」生活を経験しておらず、さらに「天子の御恩と祖先の余徳」も何もなく、「往年の仲の良かった女性たちのことを追憶する」ことは不可能です。これが曹雪芹と『紅楼夢』の「作者」との第一の相違点です。
第二の相違点は性格です。『紅楼夢』の「作者」は女性達に混じるのが好きで、いろいろと「不肖」な行為がありました。しかし、曹雪芹は名士の趣が濃い文人でした。親友の敦誠、敦敏、張宜泉らの詩に現れる曹雪芹は、豪放、闊達でロマンチックなところがあり、『紅楼夢』の「作者自云」とは明らかな対比をなします。
敦誠の『佩刀質酒歌』によれば、
「秋の暁に槐園で雪芹と遇う。雨に濡れ朝の寒さが懐を襲う。時に主人は未だ出ず、雪芹は酒に渇すること狂するが如し。私は佩刀を解いて酒を買い、これを飲む。雪芹は甚だ歓び、長歌を作って私に感謝し、私はこれを答として作る」。
雪芹は酒を飲んだ後、感情が高ぶり、「曹子は大笑して快哉を称し、石を叩いて歌を作りて声瑯々たり」といいます。これがどうして「往年女性たちと仲の良かった」『紅楼夢』の作者だと思えるでしょうか!
2.脂批の中の「作者」とは曹雪芹を指すのか?
『紅楼夢』の評注者脂硯斎はよく「作者」、そして「雪芹」「芹渓」「芹」に言及していますが、脂硯斎は一度も「作者」と「雪芹」の二つの概念をいっしょくたにしたことがなく、「作者」と「雪芹」は明らかに異なる概念です。一般に、書中の描写に関係した部分では脂硯斎は「作者」または「石頭」に言及し、増補部分、詩や詞の創作に関係した部分では、脂硯斎は「雪芹」に言及しています。
脂硯斎は「作者」について次のように記しています。
「作者は菩薩の心を具え、刀斧の(きちんと整った)筆を執りてこの書を著した。一字も替えられず、一語も減じらせず」(甲戌第1回側批)
「「秦可卿、淫によりて天香楼にて喪す」の回は作者が史筆を用いた(事実をありのままに書いた)ものなり。その事未だ漏らさずといえども、その言その意は人をして悲切感服せしむ。姑らくこれを赦し、因って芹渓に命じて削り去らしむ」(甲戌第13回の回後批)
脂硯斎と「作者」の関係を考えた場合、もし曹雪芹が「作者」なら、脂硯斎は彼に削除を「命じる」ことができたでしょうか。
もし私達が先入観にとらわれず、「作者」と曹雪芹とを混同しなければ、次の批語を正しく理解できるでしょう。
「もし雪芹が披閲し改刪をしたというなら、巻頭のここまでの楔子(序文)は誰が著いたのか? 作者の筆であること明らかで、狡猾たること甚だし。後文にこのような箇所少なくなく、これは作者が画家の煙雲模糊の技法を用いたもの。読者は決して作者に隠し去られることなきように。まさにこれ巨眼なり」(甲戌第1回眉批)
今までは曹雪芹を作者と見なしていたため、この批語はこのように解釈されました。
「もし曹雪芹が改刪をしただけならば、巻頭の楔子は誰が書いたのか? 作者(曹雪芹)が故意に読者に隠したことは明らかだ。」
実はこのような解釈は間違いでした。先入観にとらわれて「作者」を曹雪芹だと見なしていたのがその原因です。考えてみてください。もし曹雪芹が作者ならば、どうして脂硯斎は「雪芹」という概念を用いたのち、続けて3回も「作者」という概念を用い、「雪芹」や「其」という言葉で代替しなかったのでしょうか?
この批語を理解するためには、書中の内容と結びつけて考えないといけません。
書中の説明では、女媧氏が天を繕い、頑石一つが使われずに余り、のちにその頑石は「花柳繁華の地、温柔富貴の郷」を見に行きました。幾世幾劫かを経て大石の上にはひとりでに(作者はなく)文字の跡があり、石頭が自分で自分の物語を刻んだものでした。のちに曹雪芹が石頭の上の物語を改刪し、目録を編み、整理者のみで作者のいない『石頭記』が誕生しました。
これに対して、脂硯斎はこの批語を書いたのです。批語の原意はこうあるべきでしょう。
「もし曹雪芹(一人だけ)が整理を行った(作者がいない)のなら、誰が巻頭の楔子を書いたのか?(やはり作者がいるのは明らかだ。)読者は「作者」に騙されてはならない」
この批語は、整理者曹雪芹のほかに、顔を見せるのは不都合ながら、ずっと正体を明かしたいと思っている作者がいることを物語っています。この矛盾した心理的な支配のもとで、彼は隠れたり現れたりするのです。
また、脂硯斎のある批語が広く引用されて、曹雪芹が『紅楼夢』を書いたものと知らしめる事になりました。つまり「書未完にして、芹涙尽きて逝く」の文句です。
実はこれまた誤解です。この批語の原文は次のとおりです。
「よき理解者に辛酸の涙あり、泣いてこの書を成す(哭成此書)。壬午の除夜、書未完にして、芹涙尽きて逝く。私は芹のために泣き、涙また尽きんとす。出来るものなら青埂嶺を訪ねて再び石兄に問いたい、瘡頭の僧に会えないものかと。悵悵!」(甲戌第1回眉批)
この批語を正しく理解するためのキーワードは「涙尽」と「哭成」の二つの概念です。
この批語の中で、雪芹の涙は「よき理解者」の涙だということをはっきりと述べています。雪芹は「よき理解者」であって、作者ではないのです。
また、雪芹が「涙尽き」たのは、全てが「石頭記」の創作参加による傷心のためではありません。もっと重要な別の原因があります。それは、彼の愛子が夭折したことです。敦誠は『挽曹雪芹』の詩中で、「数月前に彼の子が早逝し、感傷のために病になる」とはっきり雪芹の死因を述べています。
「哭成」の「成」も「補成」とのみ理解できます。もし「作成」と理解すれば、曹雪芹が『紅楼夢』の作者ではないことを更に証明することになります。庚辰本22回の回後批に「この回未完にして芹逝く、嘆嘆!」とあります。もし「作成」と理解するなら、第22回の残りの文章は誰が作ったのでしょうか? 靖応鵾藏本の批語では「この回未だ補成せざるにして芹逝く、嘆嘆!」となっています。
この批語は、曹雪芹が『紅楼夢』の改刪作業に参与し、作者も彼を知己とし、彼を「よき理解者」としたものと解釈すべきです。しかし不幸にも、第22回を増補している最中に、曹雪芹は愛子が夭折したために「涙尽きて逝って」しまいました。
曹雪芹も当然『紅楼夢』に多くの涙を流したはずです。なぜなら『紅楼夢』は彼の所作ではないにしろ、書かれているのは彼の先代に起こった事なのですから。このことは後で再考証します。
批語の一部を引用して曹雪芹を作者だと見なせば、彼は巨著の創作のために「涙尽き」たものと思えます。このような虚構は人を感動させるのには十分ですが、残念ながら事実とは一致しません。
脂批をざっと見渡しても、曹雪芹が『紅楼夢』の作者であるとは一言も書かれておらず、脂硯斎も「作者」と「曹雪芹」をごっちゃにしてはいません。曹雪芹と脂硯斎はとても親密な関係にあり、彼は『紅楼夢』の整理に参加し、若くして亡くなりました。ですから脂硯斎は悲痛な気持ちから、しばしば彼に言及したのです。「白髪人が黒髪人を送る」という句に悲しみの気持ちがこめられています。老人は悲痛のあまり常に彼を偲び、批注を進めながら、曹雪芹の旧事をも記念として書き表したのです。
脂硯斎のこの哀悼の行為が後世に非常に大きな誤解をもたらすことを、彼は考えもしませんでした。すなわち、『紅楼夢』の一介の整理者が『紅楼夢』の作者とされたことです。才能こそあれ、傑出した文人というわけではなかった曹雪芹が中国で「最も偉大な作家」となり、逆に本当の作者は脇役の一人になってしまったことは、実に不当で感嘆すべきことです。
3.紅楼夢の作者はいったい誰なのか?
『紅楼夢』を研究する上で、小説の本文以外では、脂批が最も因るべき資料です。前段では、「作者自云」から「作者」についての特徴を幾つか挙げ、第一に作中のエピソードの経験者であり、第二に賈宝玉の原型であると述べました。
まず脂批の中の「作者」に関する記述を見てみましょう。
脂硯斎は作者が誰なのかをはっきりと述べませんでしたが、同時にその情報を暗示させようとしました。
第76回で黛玉と湘雲が凹晶館で対聯を吟じ、池の上に月影が揺れた場面で、庚辰本夾批には「思うに、その境遇に身を置いた者でなければ、どうして此の如く模写しえようか!」とあります。
第22回で宝玉が賈政の前で唯々諾々としている場面で、庚辰夾批には「かつて厳父の戒めを経験した名門の者でなければ、この一文は書けない」とあります。
第26回で宝玉が「私のものと言えるのは、せいぜい自分で書いた字や絵くらいのものですよ」と述べた場面で、甲戌側批には「経験した者だけが言い得る」とあります。
以上のように、脂硯斎が提供する「作者」の特徴は、作中のエピソード全てに対して、「その境遇に身を置いた者」「経験者」です。それは誰なのでしょうか? 答えはただ一つ、脂硯斎自身です。脂硯斎は作中のエピソードだけでなく、作者の意図や構想なども全てを掌握していたようです。果たして脂硯斎と作者は同一人物なのでしょうか?
第28回で宝玉が黛玉に「あなたに対して故意に間違ったことは、かりそめにもできませんよ」と述べる場面で、庚辰側批には「この語ありき」。宝玉の「どうしたらいいのかわからないんです」の後批には「真にこの事ありき」とあります。
注意すべきは、この話は宝玉、黛玉二人の「内緒話」であって、他の人が知ることができないということです。脂硯斎がはっきりと「この語ありき」「真にこの事ありき」というのも、彼が宝玉の原型であるだけでなく、やはり『紅楼夢』の作者だということを証明するものです。
ほかにも、第3回で宝玉を描いた「面は中秋の月のごとく、色は春の暁の花のごとく」で、甲戌本の側批に「少年は年若く苦労に耐えられず。非夭即貧(夭でなくば貧)の語は、今なお心にあり」とあります。
第17回で賈政が言った「鳳鸞の瑞祥を出だそうとは、私どもの思いもよらなかったところです」で、庚辰側批に「この語は今なお耳にあり」とあります。
「経験した者だけが言い得る」と述べながら、自分が「経験者」であるわけですから、この「言い得る」者とは明らかに脂硯斎自身のことです。
脂硯斎が「作者」であることは、さらに明確に示すことができます。
第1回の「形は大した霊物となった」で、甲戌本の側批には「自愧の語なり」とあります。
第12回の庚辰眉批に「至る所に父母の痴心を点ず。この書は自愧で成る」とあります。
これらの「自」とはあきらかに批書人自身を指しています。
第5回「誰ぞ知る公子に縁なきを」で、甲戌本の側批に「宝玉を非難しているが、自愧なり」。ここでは宝玉と「自分」を並記しており、脂硯斎が作者であるだけでなく、賈宝玉の原型であることが分かります。
脂硯斎が賈宝玉の原型だというのは、決して軽率な結論ではありません。以上で引証した部分以外にも、脂批中の証拠は少なくありません。
第18回の「三、四歳の時分から賈妃はじきじきに手をとり、(宝玉に)口伝えに何冊かの本を教えた」との部分で、庚辰側批には「私はこのように教示された。故にここを批注するにあたって、声を上げて大哭するのを禁じ得ず。姉に先立たれなければ、私はどうして廃人になっただろうか?」とあります。
この批語では「宝玉」と「私」とを並列し、「賈妃」と「亡姉」とを並記しています。『紅楼夢』のこの部分の描写は、部外者が見れば至極平凡です。自分の経験があったからこそ「声を上げて大哭」したのです。
第25回の「(宝玉は)頭を王夫人の懐にうずめた」との部分、これも部外者が見れば平凡な描写です。しかし宝玉の原型である脂硯斎は感情を抑えられず、甲戌本の側批に「私は咽び泣くばかり」とあります。
脂硯斎が賈宝玉の原型であることについて、もう一つ有力な証拠があります。
第22回、賈府で宝釵の誕生日の点戯(芝居の目録に点をつける)の場面で、庚辰眉批に「鳳姐が点をつけ、脂硯が筆を執ったこと、今知るものは殆どなし」とあります。ここで脂硯斎は自分と作中の人物とを並記しています。
第22回では誰が鳳姐のために執筆したかは描かれていません。しかし『紅楼夢』第28回に宝玉が鳳姐のために代筆をする描写があります。
「鳳姐は宝玉の姿を見ると、笑って「ちょうどよかった。ちょっと入って、代筆を手伝ってちょうだいな」。宝玉は仕方なしに部屋に入り……宝玉は「何ですこれは? 勘定書でもないし、贈答品でもなさそうだし。どんなふうに書けばいいの?」鳳姐は「好きなように書いてよ。どうせ私が分かればいいんだから」。
この場面の後、庚辰本の側批に「この語ありき、この事ありき」とあります。
脂硯斎は鳳姐のために代筆しました。宝玉もまた鳳姐のために代筆しており、脂硯斎が宝玉の原型であることは疑いありません。
先に私達は、作者自云に基づいて、『紅楼夢』の「作者」は賈宝玉の原型であると述べました。そして今、「作者」の特徴に一致するのは脂硯斎ただ一人です。脂硯斎は曹雪芹より年輩で、作中に描かれた豪華な生活を経験したことがあります。『紅楼夢』の「作者」は彼を除いてほかにはいません。清裕瑞はかつて『棗窓閑筆』の中で「私はそのいわゆる宝玉なる者が、その(雪芹の)叔輩の某人を指すと聞いた」と述べており、この言葉は信じられます。
次に、脂硯斎と「石兄」との関係について述べます。
『紅楼夢』の巻頭の「作者自云」では「作者」が誰を指すのかは示されておらず、「作者」と唯一関係があるのは、あの頑石です。
この頑石は女媧氏に用いられずに、一人孤独に青埂峰の下に捨てられ、その後「昌明隆盛の邦、詩礼簪纓の族、花柳繁華の地、温柔富貴の郷」に行きました。のちにまた「幾世幾劫」かを経て、「石頭」は自分の経歴を自分の身の上に「文字の跡もあざやかに」刻みました。
この場面の描写も実はまた「作者」の自白であり、「作者自云」及び脂硯斎の経歴と完全に一致します。次のような対比をしてみましょう。
A
作者:何一つこれといった技も身につけず、半生を棒にふってしまったことを恥じる。
石頭:補天の選にもれたことを、くやしいとも、恥ずかしいとも思って、泣き悲しんでいた。
脂硯斎:自ら「廃人」と称する。
B
作者:豪奢な食事、綺羅をまとう。
石頭:「花柳繁華の地、温柔富貴の郷」へ行く。
脂硯斎:作中の繁華な生活を「実際に体験したことがある」。
以上の比較から「作者」「石頭」「脂硯斎」は実は同一人物であることが分かります。
庚辰本21回に回前総批があり、この部分は脂硯斎が『紅楼夢』を作ったことのまた有力な証拠となります。
「『紅楼夢』律詩を題した客があり、その姓氏は失念したが、その詩意に驚きを覚え、ここに記録する。
自ら金矛を執り戈を執り、自ら殺し合い自ら網を張る
茜紗公子の情は無限にて、脂硯先生は恨むこと幾多
これ幻、これ空なる遍歴、閑かな色恋を徒らに吟ず
情は転じ情は天に破れる、情不情は我をいかんせん」
脂硯斎が『紅楼夢』を批注していた時は、「知る者まばら」な状態であり、どうして「客」が押しかけてきて批書に参加したりしましょう。甲戌批語によれば、この「客」は脂硯斎と話をしたことがあるのに、ここでは「惜しむらく名を失念す」と書かれてあり、矛盾していて信じることができません。つまり、この客とは脂硯斎自身でしかありえません。ここで脂硯斎は「客」の口を借りて秘密を述べたのです。彼が『石頭記』の批注者であり、また『石頭記』の作者でもあるということを。
「自ら金矛を執り戈を執り、自ら殺し合い自ら網を張る」とは、自分で自分の作品に批注することです。「茜紗公子の情は無限にて、脂硯先生は恨むこと幾多」では「茜紗公子」と「脂硯先生」とを並記し、自分が宝玉の原型であることを認めています。「情不情は我をいかんせん」の一句は、更に自らが賈宝玉であることを確かに示すものです。なぜなら脂硯斎自身が「宝玉は情不情、黛玉は情情」と述べているのですから。(己卯第19回夾批)
脂硯斎は「自ら金矛を執り戈を執」ったために、「作者」を虚構して自らと並記せざるを得ませんでした。まさにこのために後世に大きな誤解を生じさせたのです。脂硯斎が「作者」に仮託したのは、理性的な考えに基づく「狡猾の筆」でした。まさに彼が最初に「作者の筆は滑稽なること甚だし、後文にはここの如き箇所少なからず」と読者に戒告したように。
曹雪芹は批語中に何度か登場し、本文中にも登場しています。もし彼が「作者」ならば、何が「滑稽の筆」でしょうか。誰が「騙される」ことがありましょうか。
4.脂硯斎は誰なのか?
脂硯斎は当然曹家の人であるはずで、彼はかつて康煕帝の南巡の際の接駕に参与しています。康煕帝の南巡を曹家では計四度迎え、曹寅、曹顒、曹頫はみなこれに参与しました。これは『紅楼夢』にも反映されています。第16回のはじめに、脂硯斎は、「(この回は)省親の事を借りて南巡を書く。心中に往時を追憶す」(甲戌回前批)と書いています。脂硯斎はさらに老婆の口を借りて、康煕帝の南巡について語らせました。「趙婆さん曰く、『今日現に江南にいらっしゃる甄家(甲戌側批:甄家こそキーワードであり、上辺だけの文句ではない)は、本当にそれはそれは豪勢なもので、あのお邸だけは4度まで天子様をお迎えになりました…この世にある限りのものを、山と積み海を塞ぐようなあんばいに、それこそ『罰があたる』の『もったいない』のなんのといった段ではございませんでしたよ(庚辰側批:正にこの事ありき。経験したことあり)』」。
「甄家」とはすなわち「真家」であり、実際に起こった事なのです。
曹寅、曹顒、曹頫の三人は接駕に参与しました。ならば接駕を「経験した」脂硯斎とは三人の中の誰なのでしょうか? 彼は曹寅、曹顒ではありません。なぜなら、二人は康煕年間に死去しており、脂硯斎が批書を行ったのは乾隆年間ですから。したがって、脂硯斎は曹頫でしかあり得ません。
曹頫と曹雪芹は、叔父と甥または父と子の関係にあります。どちらであっても彼は曹雪芹の長輩です。だからこそ、彼は曹雪芹の前で「老朽」と自称し、曹雪芹の死後、あんなにも悲痛し、批語の中でたびたび曹雪芹に言及したのです。
裕瑞は『棗窓閑筆』の中で、かつて『石頭記』の版本の一種を読んだことに触れ、「巻頭にその(雪芹の)叔父脂硯斎の批語があり、往事を引用すること甚だ確かなり」と言っています。この話もまた脂硯斎が曹頫であることを助証するものです。
脂硯斎は『紅楼夢』の作者であり、脂硯斎は曹頫です。ですから、『紅楼夢』の作者は曹頫であって、曹雪芹ではありません。
曹頫はかつて江南織造を務め、後に罷免されて北京に送られました。彼は当然豪華な生活と極貧の生活を経験しています。曹雪芹のように一生の殆どを貧困の中で過ごしたわけではありません。この点で「作者自云」とは酷似しています。しかし曹頫が『紅楼夢』の作者兼批注者であるのなら、彼はどうして自分を「廃人」、「補天の才なし」と哀嘆したのでしょうか? 彼が隠した「真事」とは何なのでしょうか? 彼はどうして自分が『紅楼夢』の作者であることを認めなかったのでしょうか?
これら一連の疑問を解くには、彼の経歴を見る必要があります。
雍正2年(西暦1724年)、蘇州織造の李煦(曹寅の義兄)が公費欠損のために入獄、家産没収となりました。彼の家には家僕を含めて200名あまりがおり、蘇州で競売にかけられました。敢えてこれを買う者もなく、一年後に北京に送られて、引き続き売られました。
雍正4年(西暦1726年)、李煦の後任胡鳳翬は「年党」の禍により京に戻るよう命ぜられますが、一家揃って縊死しました。翌年の正月、雍正帝の新しく寵臣になった両淮巡塩の葛尓泰が上奏献言を行っています。
「曹頫は年少で才なく、会うこと恐れ多し」「臣は京で数度見ゆ、人もまた平凡なり」
雍正帝はこれに対して「もとより器(大した人物)にならず」「平凡にすぎず!」と批しています(周汝昌「曹雪芹小伝」より)。
ここに至って我々は、『紅楼夢』の作者が、どうして自分を「補天の才なく何一つ技を身につけず、半生を棒にふってしまった」と哀嘆したのか、脂硯斎がなぜ自分が廃人であると痛哭したのかが分かります。なんとこれらの称号は帝より与えられたものだったのです。
曹頫が自分が作者であることを明言しなかったのは、雍正朝の文字獄を恐れたこと以外に、自分自身が罪人であったためでした。雍正の政敵であった皇子胤禟は、かつて曹頫に一対の高さ6尺の金メッキの銅獅を引き渡しました。この銅獅は帝王の専享物であり、胤禟がそれを欲したことは何を意味するのか明らかでしょう。胤禟はそれを曹頫に手渡すことで、彼が自分の側近であることを認めたのです。曹頫はこうして雍正と諸王子の抗争に巻き込まれ、その結果、彼は雍正帝の政敵の「残党」となりました。
政敵に対し、雍正帝が軽々しく放っておくはずはありません。まして曹頫のような重要人物ならなおさらのことです。しかし奇妙なことに、胤禟に通じた罪を犯した彼に対し、雍正帝の処分は軽いものでした。彼が九死に一生を得た原因は何だったのでしょう?
雍正2年(西暦1724年)、曹頫は雍正帝に機嫌伺いの上奏を行いました。これに対する雍正帝の批語を見ると、曹頫はあまり皇帝に好まれていないようで、雍正帝は彼に直接厳しい言葉を浴びせています。ただし、怡親王允祥が彼を非常に可愛がっていることを述べています。曹頫が命を落とさなかったのは、允祥の保護と大いに関係があるのでしょう。
己卯本『石頭記』は『紅楼夢』の早期の版本です。「祥」「暁」などの諱を避けて書かれているからです。呉恩裕、馮其庸先生の考証によれば、己卯本は怡親王府で書写された本であり、怡親王允祥の子弘暁が指揮して書写させたものです(呉恩裕『曹雪芹叢考』より)。
なぜ怡親王府で『石頭記』を書写したのかは、これまでよく分かりませんでした。『紅楼夢』の作者を曹雪芹だと決めつければ、この事はうまく解釈できないでしょう。今ならはっきりと筋が通ります。
怡親王允祥と曹頫は深い親交がありました。もし曹頫が執筆した時に、允祥のことを書き入れたとすればどうでしょうか? 怡親王府は大いに興味を持ち、曹頫に本を求めて書写したのも情理といえましょう。
『紅楼夢』中の人物を考察すると、優しく親しげな北静王は允祥をモデルにしたのかもしれません。書中の北静王は賈宝玉にとても厚意を持って接し、これは允祥と曹頫の関係と同様でした。
書中の北静王は「まだ二十にも達せられぬ年ながら、生まれながら容姿秀麗で、ご性質優しく謙遜な人」で、賈家とは「父祖以来昵懇の間柄」にありました。賈政を見るなり、宝玉との対面を求め、彼をべた褒めしています。また宝玉に王府に足を運ぶように言っており、雍正帝が述べた「王子甚だ君を可愛がる」に対応します。
怡親王府で書写された己卯本『石頭記』の存在もまた、曹頫が『紅楼夢』の作者であることを証明するものです。
雍正帝に「もとより器にならず」と称された曹頫は、無限の憤懣と悲哀を抱いて、自分の家庭をモデルにした文学巨編『紅楼夢』を創作しました。しかし、彼はあえてこれが彼の作品であることを表明しませんでした。なぜなら彼は罪人であり、かつて皇帝の政敵に通じ、命を保てただけでももっけの幸いであったのですから。また、雍正朝の文字獄はかなり厳しく、多くの人が理由もなく首を切られ、家産を没収されました。彼のような「欽犯」は言わずもがなです。例えば、雍正初年、礼部侍郎の査嗣庭は「維民所止」という4字の詩題を出したために、罷免・逮捕され、獄死しました。その死体は衆に晒され、子供は処刑、家族は追放されました。査嗣庭が命を落とした理由は、すなわち「維民所止」の中の「維止」の2文字は「雍正」の2文字から「その首を取った」という強引な解釈によるものでした。
このような厳しい文網の中、一般の文人たちでさせ戦々恐々としていたのに、「欽犯」である曹頫が決して自分の著作権を認めなかったのは、完全に理解できます。ですから彼は『紅楼夢』の冒頭にこう記しました。
「この書では決して朝廷のことには渉らなかった。朝廷の政治について触れざるをえない場合には、さっと一筆で付言するにとどめた。それというにも、女子供のことを書く筆墨でもって、朝廷の上を冒涜しまいらせることはあまりに畏れ多くて我らの敢えてせぬところであるからである」
『紅楼夢』が創作されたのは乾隆年間であり、文網は雍正朝ほどの厳しさはなくなっていましたが、曹頫はなおも心配でした。
自分が作者だとは公言しないが、著作権を失うことは望まない、どうしたらいいのか? 彼はやむなく批書の方法を採用し、自分で自分の作品に評注をつけ、同時に可能な全ての部分を利用して自分が作者であることを暗示させたのです。実は、曹頫が使った「脂硯斎」というペンネーム自体、彼が『紅楼夢』の作者であることを暗示しています。
まず「脂」とは白粉であり、ほお紅のことです。書中の賈宝玉もまた、女の子たちがさす口紅を好みました。次に「硯」の字をバラすと「石」と「見」であり、つまり『紅楼夢』を「見」てきたあの「石兄」のことです。したがって、「脂硯」の文字は、彼が作者の「石兄」であり、また賈宝玉の原型でもあることを意味しているのです。
5.曹雪芹はなぜ『紅楼夢』の作者にされたのか?
曹雪芹が誤って『紅楼夢』の作者にされたことには、多くの複雑な原因があります。
1)曹頫は「罪を犯し」たので、あえて正体を現さず、作者を仮に「石兄」とし、常に「作者」と自分とを併用し、作者と脂硯は同一人物ではないとの誤った認識を読者に与えました。そのため、『石頭記』には批注者のみがいて、作者が誰なのかは分からないということになりました。
2)曹雪芹は『紅楼夢』の整理、改刪、書中の詩や詞の作成に参与し、中途で早逝しました。だから曹頫は批語の中でたびたび彼に言及したのです。すでに読者は脂硯斉と作者は同一人物ではないと誤認していますから、理屈からいって当然、曹雪芹に考えの方向を転じました。本文や批語の中に曹雪芹の名前が登場していたからです。
曹雪芹が『紅楼夢』の作者であるとの誤認は、乾隆年間に始まりました。永忠、明義などの人々もみな然りです。
程甲本は乾隆56年(1791年)、程乙本は乾隆57年(1792年)に世に出ました。しかし、周春の『閲紅楼夢随筆』には、これより前の1790年(乾隆庚戌)には既に120回の写本が流布していたことが記されています。
現存する中国社科院文学研究所の『紅楼夢稿』は120回の写本です。この本は程乙本に基づく収蔵家の手が加えられていますが、専門家の研究によれば、この稿本が世に出たのは程甲本より早いとされます。
後40回の作者の問題は、本来解決は難しくありません。程偉元は程甲本の序言にてこう明記しています。
「この書にはちゃんと120巻の目録があるのだから、全本がないはずはないと思った。そこで力を尽くして探求し、蔵書家はもとより、反古を積み重ねた紙屑の中まで、気を付けて探した。そして数年以来、やっとつもりつもって20余巻になった。ある日、たまたま大道の露店で数十巻を見つけ、ついに重価をもってこれを購い、欣然として翻閲し、その前後の起伏を見るのに、どうやら辻褄が合うようである。ただ字がぼやけてはっきりしないところがあり、収拾がつかない。そこで友人と共に細かに改刪を加え、長きを截り短きを補って、全文を写定し、さらに出版して同好に公にすることにした。『石頭記』の全書はここに至ってはじめて完成をみたわけである。」
程乙本にも、程偉元・高鶚の二人が書いた引言があります。
「書中の後40回は長年かかって手に入れた資料の中から、精粋を集めてまとめあげたものであって、ほかに参考にすべき原本はない。ただその前後照応するものを目安にしていささか編集を施し、よく連貫して矛盾がないようにした。その原文に至っては、敢えて妄りに憶改せず、さらに善本を得たうえで改訂したいと思っている。」
「序言」と「引言」をこのとおりに理解すれば、程偉元と高鶚は編纂・整理・増補の作業をしただけで、後40回の作者とは言えません。張問陶が『船山詩草』の中で「『紅楼夢』80回の後は全て蘭墅の補する所」と言っているのは、これを証明するものです。しかし、胡適 先生は程偉元・高鶚の言葉を信じず、後40回の著作権を高鶚に帰属せしめました。
後40回と前80回が一人の手によるものでないことの論拠は主に二つあります。
(1) 後40回の内容経緯の幾つかが脂批や前80回中の暗示と合致しないこと。
(2) 後40回自体に矛盾が含まれること。
後40回の作者をはっきりさせるには、まず前80回の作者を明らかにしなくてはなりません。私達は多くの紙面を割いて、『紅楼夢』前80回の作者は脂硯斎(曹頫)であるべきことを証明しました。後40回の著作権も彼に判帰せられるべきです。
まず、後40回の結末が、前80回の暗示や脂批とどこが合致しないのか見てみましょう。
後40回で最も批判されるのは、『皇恩に沐して賈家 世沢を延ぶ』の一段が書かれ、賈府が『蘭桂斉しく芳しく』復興することが示され、また宝玉は挙試に合格し、「白茫すっからかんの大地となる」ことが書かれていないことです。また脂批の提示する幾つかの場面が登場しません。主なものとして「(宝玉が)寒冬、酸齏に噎び、雪夜、破毡を囲む」、「(茜雪、紅玉が)獄神廟にて宝玉を慰む」、「(煕鳳が)雪を掃いて玉を拾う」、「衛若蘭の射圃(矢場)」、「(瀟湘館の)落葉蕭々、寒烟漠々」などがあります。
曹頫は『紅楼夢』を執筆するにあたり、当初は、自分と自分の家庭が遭遇した事実をありのままに記述するつもりだったのかもしれません。しかし、執筆を進めるうちに、そのような書き方ではまずいことに気がつきました。賈府の惨状を書き記すことは、実際は「皇恩」がさほど大きくないことを表明し、あきらかに「朝廷」に「干渉」することになるからです。
『紅楼夢』をこのような形で世に出すことはできません。彼はやむなく、書き始めていた幾稿かを「遺失」するしかなく、新しくやり直して、現行の作品を書き上げたのです。このため、書中では「現実」に比べて「光明」な部分が多くなり、容易に統治者が接受できるものとなりました。脂批に見える、現在の後40回中にない場面は、大部分が賈府が没落した後の悲劇的場景なのです。
後40回に「虚構」が加わったために、作者の感情は阻害を受け、その芸術性は前80回に及ばないものとなりました。
後40回と前80回の伏線及び脂批との不一致は、こうした事情による部分だけです。なぜこの不一致が出現したのかについては前段で述べました。曹家没落の当事者として、曹家の家産没収の相続人として、曹頫は曹家没落後の惨状を完全にありのままに書き出すことを望まず、決して行いませんでした。しかし彼はまた「真事」を完全に「隠し去る」ことをもよしとせず、やむなく批注の方法を用いて、些かの事実と真相を点出することにしたのです。「脂硯」とは実は「直言」の諧音をなしているのです。
後40回中には、前80回の伏線および脂批と符合する場面が数多くあります。
第119回で宝玉は挙試に合格しますが、そのまま姿を消し、再び賈家に戻ることはありませんでした。宝玉は坊さんとなって、父の賈政に最後の挨拶に訪れました。宝玉が出家して坊さんになることについては、前80回中に多くの伏線があります。
第22回、宝釵が宝玉に『魯智深酔って五台山を騒がす』の中の曲の歌詞を講釈し、宝玉は喜んで賞賛しました。その後、黛玉・湘雲の怒りをかった宝玉は、憤懣して襲人に言いました。「でもぼくは、『ただ独り、気にかかる雲もあらなく』だ!」 この言葉は魯智深の歌詞から出たものです。
第30回で宝玉と黛玉が口争いをし、「あたしが死んでしまいましたら?」と言う黛玉に、宝玉は「あなたが亡くなられたら、ぼく坊さんになります」と言います。第31回で襲人が「いっそこの息の根がとまって、死んでしまえたらと思います」と言った時には、宝玉は笑って「おまえに死なれたら、ぼくは坊さんになっちまうさ」と言っています。
前80回中の伏線と後40回の結末が一致するのは宝玉ばかりではありません。
襲人の第五回の判詩は
「温柔和順というも枉しく、桂に似、蘭の如しというも空し、羨むに堪えたり優伶に福あるを、誰か知らん公子に縁なきを」
であり、彼女は一人の「伶人」と結婚することが示されます。この「伶人」とは蒋玉函のことです。
第28回で宝玉は薛蟠、蒋玉函らと馮紫英の家で酒を飲み、蒋玉函は酒令で「花気人を襲いて昼の暖きを知る」の詩句を口にしました。「襲人」の名は正にこの詩からとったものです。さらに蒋玉函は宝玉と腰帯を交換しますが、宝玉の腰帯は襲人のものでした。つまり作者の構想では、襲人は蒋玉函に嫁ぐことが決まっていたのです。第120回で宝玉が出家した後、襲人は果たして蒋玉函と結婚しました。
元春の第5回の判詞は
「二十年来是非を弁じ、榴花開く処、宮門を照らす、三春いかで及ばん初春の景に、虎兔相逢うて大夢に帰せん」
であり、これは元春が「虎兔相逢」により死亡することをはっきりと暗示したものです。「虎兔相逢」とはいったいどういう意味なのでしょうか。第95回の記述では「この年は甲寅の年で、12月18日が立春だった。元妃のご薨去の日は、12月19日であったから、すでに卯年の寅の月に入っていたわけである」とあります。「卯年寅月」とはまさに「虎兔相逢」の見事な解釈です。前5回と後95回はこのように一致するのに、第80回の前後が一人の手によるものではないとどうして言えましょうか。
なお、「虎兔相逢」の部分は版本によっては「虎兕相逢」とされ、「虎兕相逢」を正統と見なす人たちもいます。現存の版本では己卯、夢稿本で「虎兕」とされる以外は、甲戌、庚辰、蒙府、戚序、甲辰、舒序本はみな「虎兔」となっています。このことは「虎兕」を「虎兔」に改作したのは作者の原意であって、別人が妄りに改めたものではないことを示します。
探春の第5回の判詞は
「才は自ら精明、志は自ら高し、末世に生まれて運偏えに消す、清明に涕もて送り江辺より望めば、千里の東風、一望遥かなり」
であり、『紅楼夢十二支曲・分骨肉』でさらに解釈がされ、探春が「遠嫁」することを暗示しています。『紅楼夢』第99回で鎮海総制周瓊が賈政に探春を息子の嫁にと求め、賈政はこれを承諾しています。海疆に嫁ぐのは、当然「遠嫁」です。後40回と第5回の判詞は一致することが分かります。
近年「探佚学」という学問が生まれました。「探佚学」は後40回が前80回の原意と一致しないことから、前80回の作者の「原意」を「回復」することを目的とするものです。 前段で述べたとおり、『紅楼夢』の作者・曹頫は外的要因により、「朝廷への干渉」を「決して朝廷のことには渉らない」ように、自分の構想を変えました。曹頫の元々の「計画」を明らかにすることは、『紅楼夢』を理解する上でメリットがないとは言い切れません。しかし問題は、「探佚」する時に、証拠ばかりを重んじて勝手な想像が許されないことです。勝手な想像は「創作」となり、文学研究の範囲を超えるからです。後40回を一切「悪作」と決めつけるのは、更に軽挙な行為といえるでしょう。
次に、後40回自体に含まれる矛盾点をもう一度見てみましょう。
巧姐の年齢は後40回中で大きくなったり小さくなったりします。第84回の巧姐が驚風(ひきつけ)を起こす場面では、「巧姐は乳母に抱かれ、桃紅色の綾子の小さな綿蒲団にくるまっていた。顔は真青で、眉根や鼻翼がかすかに動いている様子」とあり、まるで嬰児のようです。しかし第92回では、巧姐は突然大きくなり、「三千字以上読めますわ。『女孝経』を一冊読みあげまして、半月ほど前から『列女伝』にかかりましたの」と宝玉に言っています。
第101回では、乳母が巧姐に悪たれをつき、「ほんとにこの早死のガキめ! おとなしくくたばって伸びてりゃいいものを、夜の夜中まで、お袋の葬式じゃあるまいに、ギャアギャア、ギャアギャア泣きくさって!」と言いながら巧姐をつねり、巧姐はわあっと大声で泣き出します。巧姐の年齢はまた小さくなったようです。しかし第117回では、賈薔が「(巧姐は)年頃も13、4ってところだろう」と言っており、巧姐はまた大きくなりました。
これらの矛盾点は、前80回で巧姐がもつ矛盾と酷似しています。前80回では、王煕鳳には「巧姐児」と「大姐児」という娘がいました。しかし、王煕鳳の娘は一人だけ、との明記されています。これは「巧姐」と「大姐児」の二人のモデルを、作者が創作中に一人に合体させたものと解釈できます。しかし、もともと巧姐児と大姐児は別人であるばかりか、かなりの年齢差がありました。そのために当然年齢は「大きくなったり小さくなったり」し、作品中に明らかな矛盾を残したのです。後40回のこの矛盾は、過去には高鶚続書説の根拠とされてきました。しかし実際は、前80回と後40回が一人の手によることを証明するものです。
『紅楼夢』120回は緊密な連関をもって構成されています。また、通用本『紅楼夢』は120回の題目をもって登場しました。この事実は、後40回と前80回に内在の一致性があることを強力に証明します。各種の証拠をそのまま解釈すれば、120回『紅楼夢』は一人の手でこそ生み出せるとしか言えません。外的要因により後40回は元々の構想どおりには進まず、芸術性が影響を受けたとはいっても、それは各種の『紅楼夢』続書に比べればどれほど優れているか分かりません。高鶚・程偉元は「摩滅し整理不可となった」後40回を増補・出版し、『紅楼夢』を「完全」な形で世に出しました。その功績は消すことができません。彼らがいなければ、今日の『紅楼夢』が全く違うものになっていたであろうことは間違いありません。