そこへ趙氏がやってきたので、王夫人は話をやめます。賈政は趙氏に「環児は近頃、勉強には身を入れているのか? 大殿(賈珍)に付いて学んでいると先日人から聞いたが、結構なことだ」。 趙氏は機会に乗じて、「殿はこの頃公務がお忙しく、教えていただく時間がありませんでしたので、大殿のところで学んでおり、見識も増えて近頃はずいぶん上達いたしました」。 賈政は「よいことだ。大殿に付いてよく学ぶように言っておきなさい。あ奴も東の屋敷(寧国府)で弓を学んでいるとのことだが、上達はしたのか?」 趙氏が「ずいぶん上達しました。先日もウサギを一羽射止めましてございます!」と言うと、賈政は喜ぶのでした。
王夫人は、彼女が探春の生母であるので、探春のことを話しました。趙氏はしばらく黙って聞いていましたが、最後に冷ややかに「どこにでも行ったらいいんですわ! あの娘が王妃になったら、私たちも恩恵をあずかれるかもしれませんけど、いずれ私を母だとも思わなくなってしまうんでしょうよ!」と言ったので、王夫人は失笑しました。また、玉釧児に遊具を何点か持ってこさせて趙氏に与え、「環児にやってちょうだい」と言うと、趙氏は礼を述べて立ち去りました。賈政は王夫人に尋ねて、「璉児がちょっと前に帰ってきたようだったが、この頃は忙しいんだろうか? 三の姫のことは、璉児と珍の兄貴に調べてもらおうと思うんだが」。 王夫人は「なんでも庄園で災害があって、璉児は庄園に行ってしまったそうです。珍さんには私が明日言って調べてもらうようにしましょう」と言ったので、賈政は頷きました。夜も更けたので、二人はそのまま床につきました。
さて宝玉はこの日、秦鐘が亡くなって以来、智能児に会いに行っていないことをふと思い出しました。そこで焙茗に馬を用意させると、主従二人でこっそりと後門から出て、鉄檻寺の大道を通って饅頭庵にやってきました。
焙茗が庵の門前の木に馬をつないでいると、これを見かけた小尼が静虚に知らせ、静虚が慌てて迎えに出てきました。宝玉が階段を渡ってきたのを見て、急ぎあいさつし、「どういう風の吹き回しでしょう。どうして知らせを寄越していただけなかったのです?」と言うと宝玉は「今日は暖かかったので外出してきたんだけど、ここは近くだから水を一杯もらおうと思ってね」。 静虚は急いで智能児にお茶を出させます。
智能児は宝玉たちが来たことを知ると、最初は身を隠して出てこないつもりでしたが、静虚に呼ばれてやむなく出てきました。宝玉が彼女を見ると、かなり痩せていて痛々しい様子です。静虚が茶菓子を取りに行った隙に、こそこそと話しかけます。「最近はどうしていたんだい?」 智能児はうつむいて喋りません。宝玉は「私はあんたに頼りになる人を見つけてあげたいと思っているんだ。将来も安心して過ごせるんじゃないかな」と言いますが、智能児はかぶりを振るだけでなおも喋りません。
宝玉は、智能児が至誠の人であることをあらためて思い知り、つい慰めて言いました。「姐姐は年も若いんだし、宝玉の勧めで還俗して、頼れる人を見つけたと秦鐘さんが聞いたら、草葉の陰で喜んでくれるんじゃないかな。意地を張って一生を無駄にしてしまうようでは、私もあの世で合わせる顔がないよ」。 智能児はうつむいて涙をぬぐいますが、なおも答えようとしません。宝玉ももうそれ以上説得しようとはせず、じっと彼女を見つめて「そういうことであれば、もし今後、姐姐に何か面倒なことがあった場合は私に手紙をください。必ず何とかしますから」。 智能児は何も言わずに行ってしまいました。
宝玉は彼女を見送ってしばらく呆然としていました。立ち去ろうとすると、清虚がこれを留めて、「せっかく遠いところをいらしたのですから、お腹をすかせたまま帰ることもありますまい。ここは郊外の辺鄙な場所ですけど、自然の美しいところですから、しばらく遊んでいただいているうちに食事を御用意いたしますよ」。
宝玉もここで遊びたいと思っていたので、うなずいて了解し、焙茗とともにそこを出ました。
焙茗は「二の若様はお一人でこの辺りにいらっしゃってください。私は飼葉を摘んで馬にやってきますから」。 宝玉はうなずいて、前方のそう遠くないところにあばら屋があり、青々と茂った竹が取り囲んでいるのを見て、ふらふらと近づいていきました。村はずれまで来ると、一人の村娘が竹カゴでサツマイモを洗っていました。彼が近づいて来るのを見たその娘は、天人が降りてきたかと訝しがって、頭を傾けながらじっと見つめていました。
宝玉がこの村娘を見ると、衣服はボロボロですが、顔つきは赤くつやつやとして飾り気がなく、両目は麗らかです。宝玉は興味を覚え、また、この村娘に見覚えがあるような気がしました。彼女が絶えずカゴをガチャガチャとやっているのを見て興味をそそられ、笑って尋ねます。「あんたがずっと叩いているそれは何だい? 中の丸いものは何だい?」その娘は潤んだ目をくるくるとさせて「これは芋を洗うカゴで、こうして叩いて泥を落としているんだ。ご覧、洗ったのは白くてなっただろう。煮て食べると香ばしくて柔らかいんだ」と言って、手を止めて宝玉に見せました。宝玉は水路に近づいてかがみ込み、村娘は彼の手を取ります。宝玉はカゴを揺り動かしながら、村娘を見て笑います。
村娘が「あんたは天界から降りてきた神仙かい?」と尋ねるので、宝玉は口をすぼめて笑い、かぶりを振りました。 「からかわないでよ、あんたは首に輪をぶらさげているから哪吒(なた)太子じゃないか」と言って笑いが止まりません。すると、村娘は突然びっくりして立ち上がり、「あれれ、思い出した。あんたは以前村に来たことのある兄さんじゃないか!」
宝玉もびっくりして、ようやく思い出しました。以前に糸車を転がして見せてくれ、村はずれで彼を見送っていたあの二丫娘じゃないか。道理で見覚えがあるわけだ。宝玉が彼女に尋ねようとしたところに、焙茗が呼びに来ました。 「こちらでしたか、やっと見つけましたよ。食事の用意ができ、清虚たちが待っていますよ」。 宝玉は面白くない気持ちでしたが、二丫娘をちらちら見て、がっかりして立ち去りました。
焙茗は歩きながらこっそりと尋ねます。「さっきの村娘、服はボロボロでしたけど、どうして話しかけたんです? 香をつけていないと、若様に臭いがつきそうでしたよ」。 宝玉は笑って答えません。焙茗は「分かっていますよ、若様はあの娘が貧乏で可哀想だから手助けしたいって思ったんでしょう」と言うと、宝玉はハッとして、身につけた玉珮や銀子をあげなかったことを後悔し、ぼんやりしてしまいました。焙茗は地団駄を踏んで嘆息し、「バカなことを申しました! 二の若様はきっとあの娘を侍女に買い入れたかったのでしょう。明日、林のおばさんに言って買ってもらいましょう。二の若様に毎日芋を洗ってくれれば、二の若様も安心でしょうから」と言ったので、宝玉はこらえきれずに声を出して笑います。 「ふざけた奴だな! でたらめばかり言って! 帰ったらその舌を抜いてやるから見ていろ!」 焙茗は慌てて舌をひっこめます。二人は饅頭庵に戻ってきました。
清虚は急いで精進料理を用意しましたが、宝玉が好きなものはなさそうでした。しかし、サツマイモの入った椀を見つけ、思いがけない喜びに食べてみると、とても柔らかくて美味しい。そこで、この料理ばかりを食べました。清虚は彼が好んで食べているのを見て非常に喜び、おかわりを持ってこさせるのでした。
宝玉は食べ終わってお茶で口を注ぎますが、智能児は出てこようとしないので、仕方なく別れを告げました。清虚は、道中くれぐれも注意し、馬にぶつからないようにと何度も言い含め、宝玉は庵を出て馬にまたがりました。あばら屋を通り過ぎる時、再び二丫頭に再会したいと願って仰ぎ見ますが、全く姿は見えず、溜息をついてがっかりして帰りました。
宝玉は帰って一、二日たってから賈母の部屋にあいさつに行き、サツマイモが食べたいと駄々をこねました。賈母は「なんだって、そんな下賎な食べ物を食べたくなったんだろうね」と笑って、厨房に作るように伝いを出しました。
お供の襲人も、「先日戻ってきてから、サツマイモはうまいんだ、食べたいんだと騒いでいるんです」。 賈母は笑って「サツマイモは私も小さい頃に一、二回食べたことがあるけれど確かにうまかったね。宝玉が食べたいと言うんなら、厨房で少し多く作らせてみんなで食べようじゃないか」。
しばらくすると鳳姐がやって来て、「ご隠居様がサツマイモを食べたがっているとお伺いしました。私も食いしん坊ですから、一口ご相伴させていただきますわ」。 賈母は鳳姐がはしゃいでいるのを見てとても喜び、「宝玉が食べたがるので作るように言ったんだけど、お前達も好きだとは思わなかったよ。そういうことなら、嬢ちゃんたちも呼ぼうじゃないか。ただ、林の嬢ちゃんは少食だし、サツマイモは食べ過ぎるとこなれないからね」。 宝玉は「林妹妹は三妹妹のところに双六をしに行きましたから、知らせを出しましょう」。
しばらくして姉妹たちが揃いました。黛玉と探春も知らせを聞いてやってきました。尤氏も侍女見習から変わった事が行われると聞いてやってきました。李紈と王夫人も続いて到着しました。
賈母は、これだけ多くの人が集まったことに喜んで、笑って言いました。「サツマイモは毎年食べてはいるけど、料理にちょっとだけ入っているもので、これだけで食べたことはないね。今日は貧家での食べ方を真似してみたら、みんなが来てくれたね」。 尤氏は、賈母が喜んでいるのを見て、「私も実家にいた時に何度か食しましたけど、とてもおいしかったですわ」。 鳳姐は「平児と大姐(巧姐)にも届けてちょうだい。一度にこんなに作ることはそうないからね」。
間もなく、紅漆描金(象嵌に漆を塗り、上から金で絵を描いたもの)の掌盤に、全部皮を剥いて載せられたサツマイモが厨房から運ばれてきました。鳳姐は丸くて大きいのを一つひったくって賈母に差し上げ、尤氏は王夫人に差し出しました。姉妹達もそれぞれ取って食べました。
賈母は「これはこうやって皿に盛って食べるのがいいんだね。貧家に習って、みんなで賑やかに取り合って食べられるからね」。 李紈は「来年は私どもの稲香村でも栽培して、ご隠居様に食べていただきましょう」。
惜春は「将来、私どもの家でもこれが頼みの綱になるかもしれないんですから、取り争うべきではないですわ」。 尤氏は「たまに一つ二つ食べるもので、毎日なんて食べられないわよ」。 惜春は「私の言うことがお分かりにならないのですね。このサツマイモは、普通の家でも普通に食べているものですけど、この家で将来もずっと食べられるとは限らないじゃないですか。ですから、私は食べずにおいて後日食べに参りますわ」。 尤姐は笑って「あなたが食べなくても私たちが食べてしまうわよ。林のお嬢さんはあまり食べられないことだし、一緒に食事をしてきなさいな」。 惜春は冷笑し、黛玉とともに後方の部屋に食事に行きました。
さて、一人一つずつ取ると、皿に残るサツマイモは少なくなりました。鳳姐は慌てて二つ掴み取って、「最初に食べたいと思っていた一本を鴛鴦に取られてしまったのよ。この二つは私のものだわ」。 鴛鴦は「まったく食いしん坊ね。さっきはいくらも食べられなかったんですから、この二本は私のものですよ!」。 鳳姐は譲ろうとせず、二人で取り合いを始めます。鳳姐は尤氏に向かって「助けてよ。ほら、これを受け取って」と言いながら、手にしたサツマイモを放り投げます。しかし手元がそれ、宝玉の胸元に当たってしまいました。不意を突かれた宝玉は、「うわっ」と声を上げます。一同はみなどっと大笑いして、「大変よ、きれいな服が汚れてしまいましたわ」。
賈母は笑いながら「びっくりしただろう?」と言って『安神養心丸』を取ってこさせようとします。宝玉は笑って「要りませんよ。それより、鳳姐が手をひねったんじゃない?」 鳳姐も笑って「ほらほら、さっさと服を着替えていらっしゃい。人のことをとやかく言わなくていいのよ」。
しばらくすると襲人が衣服を取ってきて、ニヤニヤ笑いながら鳳姐に言います。 「二の奥様が汚されたんですから、償っていただけますよね?」 鳳姐は「好妹妹、そう急かせないで。明日とびきりの物を二つ届けますから」。 襲人は手を叩いて笑って、「これで私たちは大儲けですわ」と言うので、一同が「どうして?」と尋ねると、襲人は「この衣服は、実は二の若様は気に入らず、今朝はずいぶんと機嫌を取って、ようやく着てくれたんです。二の奥様に賠償していただけるんなら願ったり叶ったりですわ」。 鳳姐は口をとがらせて、「仕方ないわ、これもみな、私が食いしん坊で粗野なせいね。今日ひったくったサツマイモだって、根の張る物でもないのに、とんでもない話だわ。もし賠償できなかったら、ご隠居様が何とかして十倍も償ってくれるのが筋ってものよね!」
賈母は「この猿め、また私のせいにする! 私のものを食べたんだから、お返しの宴をしてくれるんだろうね!」 鳳姐は太ももを叩いて、「皆さんお聞きになりましたか。このサツマイモは値の張る物でもないのに、ご隠居様は騙して食べさせて、私に魚肉を償えとおっしゃる。もし魚肉を食べたなら、龍肝鳳胆を要求され、龍肝鳳胆を食べたなら、私の心臓を取り出せと言われるんじゃないかしら!」
一同はどっと笑い始めます。賈母は鳳姐を指さしたまま、涙を流しながら笑って話もできません。宝玉、探春らは腹を抱えて笑い転げ、王夫人、尤氏は腰をかがめて息も絶え絶えの状態です。
鴛鴦は賈母の体を揉みながら、笑って言います。「明日私たちが龍肝鳳胆を用意しますから、二の奥様に食べていただいて、奥様の心臓が玉石でできているか瑪瑙でできているのか見定めさせていただきますわ。どうしてこんなに口が悪くなったのか、誰も及ぶ人がいないんですから」。 李紈は「鳳ちゃんはきっと李老君(老子)の仙丹を食べて生まれてきたのね。だから、心臓が図太くなって他人が思いもつかないことを思いつくのよ。私たちの及ぶところではないわ」。 賈母は「私の見たところ、李老君の仙丹か、比干(殷代の聖人)の心臓を食べたせいで、こうも手に負えなくなったんだろうね」。
惜春と黛玉は食事を終えて出てきていました。惜春はこれを聞くと笑い出して、「二の奥様の悪口にしか聞こえませんね」。 一同はまた大笑いして、「本当にそうですね。ご隠居様に言わせると、比干の心臓を食べた九尾の狐なんですね」。
一同はまた笑い出し、しばらく談笑してから、賈母がそろそろ疲れた様子でしたので、お開きとなりました。宝玉はサツマイモの味を思い返し、襲人は衣服のことを面白がって話し、ともに怡紅院に帰りました。
さて賈珍は、庄園が飢饉にあって農民がみな逃げてしまい、賈璉は南方から戻って間もなく当地に向かったと聞いて、気を揉んでいました。しかし、新たに馴染みとなった翠香という妓楼の遊女と離れがたくもあり、賈蓉を呼んで尋ねます。「庄園の凶作騒ぎの件は分かっているのか? 璉二は既に向かったそうだが、お前は他人事のようだな。一日中何をしているものやら」。 賈蓉はこれに答えて「先日、烏の旦那(烏進孝)が手紙を寄越し、あちらはひどい干ばつで、二月から今まで雨らしい雨が降っていないのだそうです」。 賈珍は「璉二の奥さんのところに行って、何か知らせが来てないか聞いてきてくれ」。
賈蓉が「はい」と答えて行こうとすると、ちょうど折良く、鳳姐が人を寄越しました。「璉の二の殿から西の庄園についての知らせがあり、西の屋敷(栄国邸)の八つの庄園ではほとんど収穫できず、こちら(寧国邸)のはいくらかはましとのことです。村民も多くが逃亡し、大勢で騒ぎを起こす者もいます。璉の二の殿が行かれて、とにもかくにも静まりました。二の奥様からは、もしこちらの殿が手を回していただけるのであれば、東の庄園にも人を遣ってくださいとのことです」。
賈珍はこれを聞くと、表情を曇らせて賈蓉を罵ります。「聞いたか? 私は言っただろう、普通の干ばつだったら、璉二が自ら向かう必要はあるまい。この腑抜けめ! 頼昇と相談するからさっさと呼んでこい!」 賈蓉は賈珍が怒っているのを見ると、恭しく侍立して一声も発しません。頼昇を呼べとの仰せに、急いで人を呼びにやります。
すぐに頼昇がやってくると、賈珍はしばらく睨みつけてから、「なあ、頼昇よ、我が家もひどい有様だな。お前達も他人事のように脳天気だな。璉二が庄園に向かった事も聞かなかったのか?」 頼昇はしばらく立ちつくしてから答えます。「私はあの日殿に申し上げたのを覚えています。殿は薛の旦那(薛蟠)と出かけるとのことで、私が若様に報告したんです」。
賈珍はちょっと考えて、そうだ、あの日は薛蟠と一緒に翠香のところに行こうとしていたので、帰ってきたらすっかり忘れてしまっていた。昨晩になって尤氏から聞いたのだったが、頼昇が賈蓉に何か言われても面倒だ、と思い、賈蓉に向かって、「東の庄園はどうなっているのかよく見てくるんだ。昨日も水害の報告が二件あった。明日、頼昇と一緒に行って、どの程度の金で片付くか見計らってこい。ああいう手合いは面の皮も厚いから、本当に大勢で騒ぎを起こそうというんなら、あちらの長官に申し出ろ。こちらの名簿も持っていくんだぞ」。 賈蓉と頼昇は揃って「はい」と答え、さらに何度か「分かりました」と言ってから引き下がりました。しかし、賈珍がまた「蓉児!」と呼んだので、賈蓉は慌てて戻ってきます。「お前の母さんを呼んできなさい! 用があるから私がここで待っていると言うんだ」。 賈蓉は「はい」と答えて、ようやく退出しました。歩きながらも不満いっぱいで、「ずいぶん人を罵倒しやがって。ぐずぐずしていただって? 璉二の叔父さんが向かった時に、あんたはいったいどこにいたって言うんだい!」 言ったところで仕方がなく、明日には頼昇と共に東方に行くしかないのでした。
しばらくして尤氏が来たので、賈珍は「蓉児は近頃てんでなっていないな。どこの庄園も天災で騒いでいるのに、行って調べようともせず、毎日何かと騒いでいるんだからな」。 尤氏は「先日も璉二さんが行ったと聞きましたので、見に行くように言ったんですけど、いつも用があるからと言って聞く耳をもたないんですよ。まだ回収できていないお金がまだだいぶあるようですよ」。 賈珍は「明日行くようにと言ったんだ。東の庄園では水害の報告も上がっているから、見てみないことには我々がやっていけるかどうかも分からないからな」。 尤氏は「私が言っても聞かないんですもの、やはりあなたに言っていただかないと」。 賈珍は嘆息して「やはり可卿が亡くなったのは残念だったな。いてくれれば蓉児の何人分かになってくれたんだが。お前もよくよく気をつけてくれ」。 尤氏は「はい」と答えます。
賈珍は「いつまでここに座っているんだ? ご隠居様は昨日病気になられ、寒気がして熱があるそうだ。さっき、脈を診てもらうのに王太医に付き添ったんだが、お前もお世話をしてきなさい」。 尤氏は「ちょうど蓉児の妻を連れて一緒に伺いますと言ったところで、あなたに呼ばれて来たんです。これから行ってきますわ」と言ったので、賈珍は頷きます。
ようやく尤氏が車に乗って賈母の部屋にやってくると、すでに部屋いっぱいに人がいました。何人かの侍女見習が、蝿払い、うがい盆、タオルなどを手にしています。鴛鴦が薬を持ってきて、鳳姐とともに賈母を支えて飲ませ、王夫人は湯を持ってきて口を漱がせます。尤氏は急いで濡らしたタオルを鳳姐に渡し、鳳姐は賈母の顔を拭い、李紈は冷たいタオルを賈母の頭にのせ、それから賈母の体を横にさせます。鴛鴦が薄手のふとんをかけると、邢夫人は急いで秋香色のとばりを引こうとしますが、賈母は「いらないよ。風が通るようにしておくれ」と言うので、邢夫人は頷いて承知します。部屋いっぱいの人々もひっそりと静まりかえっています。
賈母が眠るのを待ってから、王夫人はこっそりと「落ち着かれたようですから、みんなは休みましょう。ここには珠児の妻(李紈)と鳳姐が残り、夜は交代で来てもらいますから」。
この時、賈赦、賈政、賈珍らは外で待機していましたが、お休みになったと聞いて退出しました。
賈母は気候の変化で寒気を感じ、飲食の不調が加わって熱が出たのでしたが、薬を一剤飲んだところ、翌日には楽になって食事も少し進んだので、周囲はやっと安心しました。なおも、毎日見舞いに訪れ、薛未亡人も宝釵、宝琴を連れてちょくちょく機嫌伺いにやってきました。
ところが、黛玉は体が弱いうえに、このところちょくちょく賈母の近くにいたので、病がうつって熱が出て、咳も止まらなくなりました。賈母は嘆息して、「私は良くなったのに、林の嬢ちゃんが病気になってしまったんだね。私が飲んだあの薬は霊験あらたかだったから、早く王太医に見てもらっておくれ!」と言って、黛玉の見舞いに鴛鴦を瀟湘館に行かせました。
鴛鴦は、賈母がだいぶ良くなったので安心し、園にやってきました。数日来なかっただけのようなのに、園内はあまりに変わっていました。ザクロの花は満開、春蘭が垂れ下がり、オシロイバナの花の香りが満ち、カンナは恥ずかしげに顔を出しています。最も美しいのは池いっぱいの蓮の花で、水面に横たわる蓮の葉は数多並ぶ碧玉の盆のよう、水面に立って風になびく様はカラフルなスカートのようで、ちらほら開いた花は桃のような赤さです。一対の鴛鴦が水面を縫って走り、追いつ追われつの様子です。
鴛鴦は呆然と眺めていましたが、ふと思うのでした。私の名前も鴛鴦だけれど、あの鴛鴦のように一生うまくいくなんて思ってはいけない。ご隠居様は年々体が弱くなられ、将来もしものことがあれば、大殿様が……ここまで考えると思わず身震いして、それ以上考えないようにしました。
突然、背後からこっそりと近づいてきた誰かが、鴛鴦の目を隠しました。びっくりした鴛鴦が「このいたずらっ子め、さっさと離しなさいよ」と言うと、その者はハハハと笑って「一人でこんなところで何をしていたの? ちゃんと言ってくれたら離すわ」。 それは平児の声でしたので、鴛鴦は「ふざけたことを。あんたこそ何をしに園に来たのよ?」 平児は手を離して「大奥様のところに御用があって来たのよ」。
鴛鴦は目をこすりながら、「ご隠居様が林のお嬢様の様子を見てくるようにと私を寄越したんだけど、ここまで来たら蓮の花が本当に綺麗に咲いていたもんだから、『天より青し(碧于天)』とかいう詩は、この蓮の葉のことを言っているんだなと思ったのよ」。 平児は「くすっ」と笑って、「はいはい、どうして学問に目覚めてしまったのかしら? それはお嬢様たちのたしなみよ。私たちまでもが蓮の花だ、木の葉だ、草の葉だと関わっていられるもんですか。もう一度聞くけど、どうしてぼんやりと眺めていたの? 悲しみに浸っているみたいだったけど」。 鴛鴦は「見間違いよ、虫が目に入ってこすって赤くなっただけ。悲しんでなんかいないわ」。 平児は嘆じて「言わなくていいわ。あんたの心配事を私が知らないとでも思って? 気丈に振る舞うのはいいけれど、先を見据えたやり方とは言えない。しっかりと考えたほうがいいわよ」。 鴛鴦は「またバカなことを。何の心配事があるって言うのよ」。 平児は「ごまかさないで。好姐姐、一生お嫁に行かないつもりなの?」 鴛鴦はふうっと溜息をついて、「嫁がなければ何だって言うの? ご隠居様はまだご健在だし、私はお仕えさえできればいいの。ここを出たいなんて思わないもの」。 平児は「望んでいないのはいいとして、例えば、花が咲いたのを見たって、鳥がさえずるのを聞いたって感情が動くでしょう。あんただって生きた人間で、草木ではないんだから、そういった気持ちは全くないわけ?」 鴛鴦は「考えたってダメなものは考えないほうがいいのよ」。 平児は「あんたも冷めた人ね。心に決めた人はいないの?」 鴛鴦は「またふざけたことを。一緒になりたい人なんていないわよ」。 平児は嘆じて「今はいなくたって、いずれ出てくるはずよ。思う人がいればいずれ結ばれるかもしれないんだから」。 鴛鴦は冷笑して「思い人がいようといまいと絶対に行かないわ。それに、このお屋敷では妾になれなければ召使いに嫁がせられるんだもの。私は死んだって出て行かないし、どこにも行きたいところなんてないわ。さっき、鴛鴦が対を成して遊んでいるのを見ていたけど、私の名前も鴛鴦なんだし、この名前に背くことはしないわ」。 平児は「言ったでしょう、あんたがさっき悲しそうにしていたのは正にそのためじゃないの」。 鴛鴦は「たまたま感じるところがあっただけよ。いつもそんなことを考えている暇があるもんですか!」 平児は「どうせなるようになるんだから、くよくよしないでいいのよ。いつ良いことが起こるかなんて誰にも分からないんだから」。 鴛鴦は「何かあれば命がけでやってやるだけよ。あんたの思いやりは覚えておくわ。さて、林のお嬢さんのところに行くわね」と言って、二人は別れました。
鴛鴦が瀟湘館の黛玉の部屋に着くと、宝玉、探春、岫烟らがみな来ていたので、急ぎあいさつをします。
黛玉は頷いて「もうだいぶ良くなったわ」と答えます。紫鵑は「昨日、王太医の薬を飲まれたら熱が下がって、昨晩は二回咳が出ただけでしたわ」。 鴛鴦は、黛玉が二日間病気で顔色は青白さを増したものの、元気なのを見て安心し、「ご隠居様が心配されて、お嬢様の様子を見てくるように、召し上がりたいものがあるか聞いてくるようにと、私を寄越しました。お嬢様にはよく養生していただき、ご隠居様が良くなったら自分でいらっしゃるとのことでした」と言うと、黛玉は「ありがとう。私はだいぶ良くなったのでご隠居様こそよくご養生ください、とお伝えしてね」。
鴛鴦は「先ほど藕香榭に行きましたら、池いっぱいの蓮の葉の上に、紅白の花が並んでいて、本当に花鳥画のようでした。風が吹くと清い香りが漂って、体が洗われるようでした。林のお嬢様もあの香りを嗅がれたら咳が軽くなるんじゃないでしょうか」。 宝玉は「そういうことなら、林妹妹を四妹妹のところに連れて行こうよ」。 探春は「病気の人を連れ回すわけにはいかないわよ」。 黛玉は「竹の葉の清い香りを嗅いでも同じじゃないかしら。数日たって動けるようになったら持ってきてもらいますわ」。 探春は「良くなったら、また詩社を立ち上げて、蓮の花をお題にしましょうよ。船に乗って藕香榭に蓮の花を見に行き、ご隠居様にも蓮の花を愛でていただくのはいかがかしら?」と言うと、黛玉も頷きます。
鴛鴦は「私は詩や詞は分かりませんけど、先ほど池いっぱいの蓮の葉が青空に繋がっている様子を見て、『天より青し(碧于天)』の詩句を思い出しました」。 宝玉は「それは韋端已(唐の詩人の韋荘)の『菩薩蛮』だね。『春水は天より青く、画船は雨の眠りを聞く(春水碧于天、画船听雨眠)』というのは蓮の花を詠んだものではないけどね」。 鴛鴦は「私が見たあの蓮の葉だって天に繋がっていたんですもの。きっとあれを詠む方もいらっしゃるはずですわよ。林のお嬢様が良くなられたら、どうかもう一度詩社を立ち上げて、詠んではいただけないでしょうか」。
宝玉は「明日ご隠居様に言って、雲妹妹(湘雲)にも知らせるとするよ」。 探春は「そう急かさないで。あと何日かしてご隠居様がだいぶ良くなられたら、蓮の花を愛でて気散じしていただけば、さらに良くなられるんじゃないかしら。林のお嬢さんもその時にはずっと良くなっていますわ。詩社にこの方を欠くわけにはいきませんもの」。 宝玉は「そうだね、詩社は林妹妹が良くなってから立ち上げよう」。 探春は「御姉様(李紈)に来ていただいて取り仕切っていただければ公平ですね。李紋、李綺の二人も呼びましょう」。 宝玉は喜色満面で「琴妹妹も行ってしまったけど、外国美人のことを朗唱してもらえれば面白いね。詩社の名前は『蓮花社』にしようよ」。 探春は「当然ですね。古代にも蓮の花を詠んだものは数多くありますね。南朝の『西洲曲』や『鳥夜啼』でも上手く詠んでいますわ」。 宝玉は「孟浩然(唐の詩人)の『蓮風香気を送り、竹露滴りて清く響く(蓮風送香气、竹露滴清響)』は蓮の花を詠んだ名句だし、他にもどれだけあるか分からないね」。 黛玉は「薛道衡(随の詩人)の『水溢れし芙蓉の沼、花飛びし桃李の渓谷(水溢芙蓉沼、花飛桃李溪)』はいかが?」 岫烟は「王昌齢(唐の詩人)の『蓮葉の羅裙は一色にて裁ち、芙蓉は顔の両辺に向きて開く(蓮葉羅裙一色裁、芙蓉向臉両辺開)』も名句に数えていいのでは?」 探春は「私たちも詠んでみましょうよ。古代の方々には及ばなくても、私たち自身の趣があればいいんですから」。
一同はしばらく賑やかに話し合ってから、黛玉を気遣って散会としました。
鴛鴦は戻る際に、蓮の若葉を摘ませて自らこれを洗い、厨房に届け、玉田の精米で薄い粥にし、大根の漬物(醤蘿蔔)と各種の小料理を添えて、夕食時に持って来るように、また、林のお嬢様にも届けるようにと申しつけました。
そして夕食時、厨房から蓮の葉の薄粥が運ばれてきました。鴛鴦が頼んだ品以外に、鳳姐が申しつけた麻油拌鶏絲(鶏の細切りのごま油炒め)と竹笋玉片儿(筍の薄切り)が一皿ずつ届きます。
賈母は匂いを嗅いで「いい香りだね、何を使ったんだい?」と言うと、鴛鴦は「ご隠居様、まずは食べてみてください」。 賈母は二口食べて、「蓮の葉の粥だね。蓮の葉の香りがするね」。 鴛鴦は「ご隠居様のお命じで林のお嬢様のところに行きましたら、池いっぱいに蓮の花の香りが漂っておりましたので、これを摘んで薄い粥に入れましたら香りもよく、さっぱり食べられるのでないかと思いまして。ご隠居様のお口には合いましたでしょうか?」 賈母は「美味しいね。匂いを嗅いだら、大碗で一気に飲み干したくなるね」。
この時、邢、王の二夫人、李紈、尤氏らも仕えており、これを聞いて皆笑い出します。王夫人は笑って「やっぱり鴛鴦は孝行者で、考えることも周到ですね。私たちだって毎日あの蓮の葉を見ているけど思いつきませんもの。ご隠居様が大碗で飲み干されて、病気がなくなって、体もしゃんとされたら、それこそ私たちの幸せですわ」。 賈母は「この娘は嫁よりずっといいよ。どこでも私を支えてくれるし、お前達も少しは見習ってほしいものだよ」。
邢夫人はこれを聞くとさっと顔を赤くし、王夫人はすぐに話をそらそうとします。
鴛鴦たちは賈母が食べ終わるまで世話をします。賈母は「この粥は食欲をそそるから、林の嬢ちゃんにも届けてあげよう。この清らかな香りを嗅いで、この彩りを見ただけでも食べたくなるからね」。 鴛鴦は「作る時に申しつけましたから、林のお嬢様ももう召し上がっているかと思います」。
賈母は頷いて、李紈に向かって、「まだこれだけ余っているから、あんたと鴛鴦で食べてしまいなさい。園内でもこしらえて姉妹たちにも食べさせてあげておくれ」。 李紈ははいと答えて座ります。鴛鴦は矮榻に座って、李紈とともに食べ終わると、厨房で片付けにきます。邢、王の二夫人は辞して出て、それぞれの部屋に食事にもどりました。後の事を知りたければ次回をお聞き下さい。