果たして宝釵は止め立てなどせず、それどころか、「ご友人が病気になったのでしたら、お見舞いに行くべきですわ」と言ったので、叔父と甥の二人は一緒に栄国府を出ました。宝釵は焙茗らにも付いて行かせました。
賈芸は「叔父上は家で気持ちがくさくさしていたでしょうから、藕宮と蕊官に会いに行ってみるのはいかがですか?」 宝玉は「二人はどうしているんだい? 私も会ってみたいよ」。 賈芸は「彼女たちに歌を歌ってもらって私共が聴けば、日銭が稼げるんじゃないですかね?」 宝玉は頷いて、「それはいいね。もしできないと言うんなら援助してやればいいだろう」。 二人は話しているうちに早くも牟尼院の前に来ていました。
すると、向かいから鼻に青あざをつけて顔を腫らした男がやってきて、歩きながら罵ります。「あのくそっ垂れの馬鹿野郎どもめ、大それた事をしやがって。どこの馬の骨かも知らねえが、倪二の旦那がただじゃおかねえぞ! あんな碌でなしの畜生どもに好き勝手させておけるか! 覚えていやがれ!」
賈芸が「倪二の旦那」と聞いてよく見ると、果たして倪二でした。急いで捕まえて、「倪二の兄貴じゃないか。何をそんなに取り乱しているんだい?」
倪二は賈芸を見ると手を叩いて、「ちょうどよかった。あんたを探していたんだ!」 賈芸が「何があったんだい? 兄貴、何でも話しておくれ!」と言うと、倪二は「牟尼院に二人の歌売りの娘っ子が来たんだが、あんたらの府から来た子たちで歌も囃子も上手いって聞いたんだ。今日は暇だったんで聴きに行ったんだが、ごろつき連中が一悶着起こし、懐に引っ張り込んで口づけしようとしやがった。娘っ子は嫌がって騒いだんだが、連中はやめようとせず、無理矢理引っ張り込もうとしたんだ。俺は知ってのとおりこの性分だ。見るなりかっとなって、連中と殴り合いをおっ始めたんだ。だが、奴らは大人数で一度に殴りかかってきてこんな有様だ。ちょうど助けを借りたかったところ、二の弟よ、一つ俺に力を貸してはくれないか」。
宝玉はこれを聞いて心が火で焼かれたように慌て、倪二への感謝も後回しに、急いで尋ねます。「今、その二人の娘は?」 倪二は「上の階に身を隠し、戸を閉めて出てきませんや。ごろつき連中はまだ一階で罵声を浴びせ、瓦や石を投げつけていますわい」。
宝玉が急ぎ賈芸、倪二、焙茗らと共に駆けつけると、果たして、そのごろつき連中が大声で罵っていました。また倪二がやって来たのを見ると、一斉に前を取り囲んで悪態をつきます。「死に損ないの馬鹿野郎め、余計な口を利きやがって! まだ殴られ足りないようだな。あの娘がお前の嫁というわけでもないし、俺たちが口づけしたってお前に何の関わりがあるんだ!」と言いながら倪二に殴りかかりました。
倪二が黙って従うはずもなく、飛び上がってごろつきの一人を蹴り飛ばしました。焙茗、鋤薬、双瑞も、これを見て助太刀に踊り出ました。
傍らで宝玉は怒りで顔面蒼白となり、大声で「みんなやめるんだ!」と叫びますが、ごろつきたちが聞くはずもありません。焙茗たちもこんな屈辱を受けたことがないので、やはり聞かず、何人かと揉み合いになりました。賈芸は苛立って大声で叫びました。「お前たちも節操がないんだな。その目を開けてよく見ろ! お前たちの目の前にいる方はどなただ!」 宝玉も焙茗たちを叱りつけました。
ごろつき共は焙茗たちが手を止めたので、殴り合いをやめ、宝玉をじっと見つめます。その衣装が煌びやかで、ただならぬ風格を見ると、次第に手の力が抜けてうなだれました。賈芸は「お前たちに本当のことを教えてやろう! こちらは栄国府の政の旦那様の御子息、宝の二の若様だ。歌売りの二人の娘はもともと宝の若様の侍女だった者たちで、今日は宝の若様が会いに来たというのに、お前たち無知なこわっぱ共が賈府の者にけんかを売るつもりか!」
宝玉は急ぎ進み出て拱手の礼をし、「諸君、前方に酒楼があるし、皆で上がって酒を飲もうじゃないか! 私も諸君と話したいことがある」。 ごろつき共は互いに顔を見合わせますが、宝玉が礼儀正しく穏やかに話すので、返す言葉もなく、やむなく宝玉と共に酒楼に入りました。
宝玉は酒や料理を頼むと、一同を座らせ、賈芸に酒を注がせます。皆が座ったのを見てから立ち上がり、杯を持ち上げて言いました。「不肖、賈宝玉より諸君に話があります。私が先に皆に三杯の酒を差し上げましょう。一杯目は、不平を見て天下に義を示した倪二の兄貴に差し上げます。彼の義侠は人の心を打ち、本来自分とは関わりのない事であるのに、義侠心を起こして正義を貫きました。倪二の兄貴こそ、この一杯目を受けるに相応しいでしょう」。 倪二は宝玉が自分を誉めるのを聞いて心から嬉しく、仰向けざまにこれを飲み干しました。宝玉はまたなみなみと酒を注がせ、杯を持ち上げて言います。「二杯目は、私が倪二の兄貴に代わって諸君に償いましょう。先ほどは倪二の兄貴により非があったわけですが、我々は皆隣人であり、互いに助け合って仲違いすべきではありません。倪二の兄貴が先に手を出したのは誤りでした。ここは、私が倪二の兄貴に代わってお詫びします」。 一同は立ち上がって、「そもそもは私共が悪いのであって、他の方のせいにするわけにはいきません。私どもが詫びるべきなんです」。 宝玉は「そういうことなら、みんなでこの杯を飲もうじゃありませんか」と言って先に飲み干し、一同もみな飲みました。宝玉は再び酒を注がせて、「この三杯目については、私が諸君にお詫びしないといけません。藕宮と蕊官は元々私どもの府の侍女ですが、今では諸君の地を借り、歌を売って生計を立てています。やむを得ないことですが、二人には身寄りがおらず、本来は隣人の方々の世話になるべきなのです。この一杯を飲むことで、一つには諸君にお詫び申し上げ、二つには今後よろしくお世話いただきたいのです。俗に『人命を救う功徳は計り知れない』と申します。二人が歌を売って暮らせれば、諸君も功徳を積むことになりますし、私としても感謝に堪えません」。 一同はみな、「宝の若様が私たちを見込んでくれた以上、喜んでお引き受けします」。 ごろつきの一人は「今後彼女たちをいじめる者がいたら、ただではおきません」。 宝玉は一同に酒や料理を振る舞い、笑いながら、「けんかをしなければ友達になれない(=雨降って地固まる)ということだね。お陰で諸君と知り合いになれました」と言って、焙茗に十両あまりの銀子を出させ、一同に分け与えようとします。一同は受け取ろうとしませんので、宝玉が「ほんのしるしですから、受け取ってください。必要な時に使っていただければ結構ですから」と言うので、一同は感謝して銀子を収めました。
宝玉は更に一錠の銀子を取り出し、謝礼として倪二に渡します。倪二はこれを手の上で転がして、「私、倪二もごろつきの一人だ。宝の若様には義のために財を投じていただいた。ここは、花を借りて仏に供え(=他人のふんどしで相撲を取る)、皆で公平に分け、互いの契りを結ぼうじゃないか」と言うと、一同は「今回のことはそもそも私たちが悪かったんです。兄貴の銀子を分けてもらうわけにはいきませんよ」。 宝玉はこれを見て非常に喜び、「倪二の兄貴はかくも立派な人だったんだね」。 倪二はどうしても銀子を分けようとするので、一同も仕方なく受取りますが、みな喜色満面に「倪二の兄貴はかくも太っ腹な方でしたか。私共も今後は兄貴に従いますから、我々を教え諭してください」。 倪二は「俺たち兄弟は今後何があっても助け合おう。遠慮はいらないぞ」。
一同はまたしばらく酒を飲みました。宝玉はようやく身を起こして暇を告げ、「二人に会いに行ってきます。びっくりさせたままにしてはおけないからね。兄弟たちはもっと飲んでください」と言って、酒代を払ってから賈芸、焙茗たちと共に店を出ました。そのまま真っ直ぐに藕宮と蕊官の住む建物の前にやってきました。
賈芸が門を叩きますが、しばらくしても物音がしません。賈芸は大声を張り上げて、「お姉ちゃんたち、早く戸を開けておくれ! 宝の若様がいらっしゃったんだよ!」
実は藕宮と蕊官は、誰かが戸を叩くのを聞いて、ごろつきたちがまた戻ってきたものと思い、びっくりして上の階に隠れていたのでした。宝の若様と言うのを聞いて、ようやく階を降りてきて戸を開け、急いで上の階に案内すると、わんわんと泣き出しました。賈芸は「事の顛末については、宝の若様はみな御存知だよ。あの者たちには酒を飲ませ、銀子もくれてやったから、もうあんな事が起きることはないだろう。お姉ちゃんたちも安心しておくれ」。 藕宮と蕊官は涙を拭って、先程ごろつきたちが打ち壊した茶碗や皿などを片付けます。焙茗たちも掃除や片付けを手伝いました。
藕宮たちは急いで茶炊(金属製の湯沸かし器、サモワール)で茶を沸かし、宝玉と賈芸に差し出して、「宝の若様は私たちを覚えていてくださったのですね。今日のことだって、お二人が来なかったらどんな騒ぎになっていたか分かりませんわ。これからどうやって過ごしていったものか!」と言って、また涙を流します。
宝玉は「あんたたちがここに来てしばらく経つのに、ずっと訪ねて来なかったばかりにこんな悔しい思いをさせてしまったね。姐姐たち、安心しておくれ。今後はいつも焙茗たちを寄越して、ああいった輩が二度と来ないようにするから。他にも悪い奴がいたら、焙茗に言ってもらえれば、私がきっと何とかするから」と言ったので、藕宮と蕊官はやっと喜色を浮かべました。
藕宮は「先ほど、あの黒い顔の御仁に助けていただかなかったら、彼らの手に落ちていたかもしれません」。 賈芸は「その黒い男は倪二といって、実は私の良き友人です。好んで人助けを行う、気骨のある好男子ですよ」。 藕宮は「芸の若様、よろしければ今後はちょくちょく来ていただけるようお取り次ぎいただけませんでしょうか。一つには彼の恩恵にあやかりたいですし、二つには私たちも感謝で答えたいのです」。 賈芸は心中こう思うのでした。倪二の妻は最近亡くなったことだし、藕宮とは生来のカップルではないだろうか。そう思いながら、急ぎ承知しました。
宝玉が「今の稼ぎでちゃんと食べていけるのかい?」と聞くと、藕宮は「最初は一人が琴を弾いてもう一人が歌っていましたが、聴いてくれる人は多くありませんでした。今では二人とも弾き語りや対唱(二人で歌のやりとりをする歌い方)ができるようになりましたので、聴いてくれる人も増えてきました。ようやく暮らしの心配がなくなってきたところでしたのに、またあんなことが起きれば、食べていくこともままならなくなりますわ」。 賈芸は「もう大丈夫だ。ここにちょくちょく足を運ぶように、私から倪二さんに言っておくから」と言って、さらに倪二の人となりについても言葉を添えたので、藕宮は顔を赤らめて、うっとり聞き入っていました。ついには、「気持ちが真っ直ぐで力持ち、誰も及びがつかないお方なんですね」と言うので、賈芸は「そういうこと。倪二さんはいつもぶらぶらしていてすることもないので、明日にでも私がお姉ちゃんたちの面倒を見てくれるよう頼めば、喜んで引き受けてくれるさ!」 藕宮は「もし琴を弾きたいのでしたら、時間がある時に習いに来ていただいてもいいのですよ」。 賈芸は承知して、こう思うのでした。自分はかつて倪二に助けてもらっており、彼に良き妻を見つけてやれば感謝の意を示すことになるだろう。
そして、宝玉が一曲弾いてくれるように頼むと、二人は琴の弦を合わせ、弾き語りをします。藕宮が生(男役)、蕊官が旦(女役)を歌い、『李亜仙、花酒の曲江池(元代の雑劇)』を歌い上げました。
宝玉はこれを聴いて何度も頷き、歌い終わると褒めちぎって言いました。「一句ごとの節回しが洗練されていて実に素晴らしい。倪二さんの助けがあれば、暮らしには困らないだろうね。姐姐たち、頑張って稼いでおくれ! 何かあったら知らせておくれ」。 見れば日も暮れかかっていたので、ここで辞して出ました。藕宮と蕊官は二人に感謝し、門前まで見送りました。
叔父と甥の二人(宝玉と賈芸)は歩きながら話をします。宝玉は「あの二人は身寄りもなく、ここで歌を売っているのに、あんな嫌がらせを受けるなんて! しっかりした男に嫁ぐことができれば、誰も彼女たちに手を出せないんだろうけど、今のところ適当な人がいないな」。 賈芸は笑って、「叔父上は気がつかれませんか? 藕宮には似合いの者がいるじゃありませんか」。 宝玉は「誰のことだい?」 賈芸は「彼女は倪二の兄貴のことを尋ねたじゃないですか?」 宝玉はちょっと考え、額に手をやって、「そりゃいいや、倪二の兄貴か。難に遭った時に真の情を見る(=まさかの時の友こそ真の友)だね。蕊官にもあとでお似合いなのを見つけてやろう」。 賈芸は「そういうことです。倪二の兄貴がいれば、私たちも気が省けますよ」。
宝玉は嬉しくなり、笑いながら賈芸に尋ねます。「もう一つ話があるんだけど、聞いてもいいかな。あんたももう大きくなったのに気に入った人はいないのかい?」 賈芸は笑って、「叔父上が仲立ちしていただけるんですか?」 宝玉は「いないんだったら蕊官もいいんだれど」。 賈芸は笑って「もう心に決めた方がおります。叔父上、お世話していただけませんでしょうか」。 宝玉は驚いて、「私が世話できるかどうか、まず話してみなよ」。 賈芸は「私が話しても、叔父上が漏らしてしまわれたら、私は人に合わせる顔がなくなり、邸内で上を下への大騒ぎになってしまいます」。 宝玉は「考えすぎだよ。誰かに言ってあんたに迷惑をかけたりはしないから」。 賈芸はやっと笑って、「それなら申します。その方は元々は叔父上に仕えていましたが、今は叔父上のお側にはおりません」。 宝玉は驚いて「それって茜雪かい?」と言うと、賈芸はかぶりを振って「今も邸内におります。叔父上、よくお考えください」。 宝玉はちょっと考えるとたちまち手を叩いて、「きっとあの子に違いない。あんたの眼力も大した物だな。鳳姐の部屋の小紅だね?」 賈芸は笑って、「どうか叔父上、叔母様(熙鳳)にお頼みいただき、甥の願いを叶えてやってください」。 宝玉が笑って「いつ見初めたんだい? 本当のことを言いなよ。当の小紅は望んでいるのかい?」と言うと、賈芸は口を尖らせて、「小紅さんだって望んでいますよ!」 宝玉は「つまりあんたたちは、あらかじめ約束して内緒にしていたんだね。でも、これは勝手に決めた婚姻だから、私はひとまず母上に報告に行かないとね」。 賈芸は笑って、「叔父上、報告することはないでしょう。甥めを驚かせないでください。叔父上は司棋さんと藩又安の件をご覧にならなかったのですか? ですから私は今まで申し上げなかったんですよ」。 宝玉は笑って「安心していいよ。いくら何でもあんたと小紅を苦しめたりしないさ。でも、小紅は容量もいいし、器量も良いし、よくあんな子を見初めたもんだね。あんたのために喜んだって、言いつけに行ったりはしないよ。屋敷内の侍女が嫁に出される時がきたら、必ずあんたのために言ってあげるから。今その話を出すのは早いし、逆に怪しまれるからね」。 賈芸は「お屋敷ではいつになったら侍女を出されるのでしょうか? それに、叔母様が小紅を手放していただけるかどうかも分からないじゃないですか!」 宝玉は笑って、「あんたも待ちきれないんだな。時間があれば鳳姐のところに探りに行ってみるよ。私の考えだからと言っておけば、あんたも余計な疑いを招かないで済むだろうしね」。 賈芸は喜んで、「叔父上は本当に私の大恩人です。時が来ればきっとご恩に報いますよ」。 二人は談笑し、栄国邸の前で別れました。
宝玉は邸に戻ると、まっすぐ賈母の部屋にやって来ました。宝釵、湘雲、惜春もみなそこにいました。賈母たちは惜春が描いた絵を見ていたので、宝玉も急いで近寄ります。
賈母は眼鏡をかけて仔細に観察し、惜春に向かって言いました。「園の絵が少し小さくて景物の疎密がしっくりこないね。台亭閣榭(建築物)は前に出過ぎていて不釣り合いだし、この綴錦楼は斜めになっているようだね。でも四ちゃんはよくここまで描き上げたもんだよ」。 宝玉は「四妹妹は工筆細描(精細な筆法)ですから、どれだけ時間がかかったか分かりませんよ。これだけ描ければよろしいでしょう」。 宝釵は「山水画の皴法(しゅんぽう/墨のタッチにより岩石や山岳の量感・質感を表すもの)は宋代の王詵(おうせん)の『漁村小雪図』に似ており、美しく鋭敏な筆先で、四妹妹はこれからもっと山水画が上手になりますわよ」。 湘雲は「私は絵は分かりませんが、少し窮屈なようで、こっちの隅から見れば良かったのに」。
みんなで論じていると、食事の用意ができました。賈母は「湘雲妹妹は明日帰ってしまうんだから、あんたたちは付き合っておあげ」と言い、宝玉は別れを惜しむように湘雲にお酒を注ぎました。
食事が終わると、惜春と宝釵は帰ってしまい、宝玉は湘雲の部屋に行きました。「妹妹は今度行ってしまうと、次はいつ来られるんだい?」 湘雲は「天下に終わらない宴会があればいいのに、またお別れしないといけないのね。二のお兄様、お体お大事に。宝のお姉様の真心に背かないでね。私は二人が仲睦まじく過ごしてもらえれば幸せなんですから。来られる時にはもちろん会いに来ます。あなた方が私を待っていてくれることを忘れませんわ」。 宝玉は嘆息して、「安心して行きなよ。私は林妹妹のことを忘れることはないけど、この期に及んで私が宝姐姐を捨てたりしたら、林妹妹に叱られるからね」。 そして、例の金麒麟を取り出して湘雲に差し出し、「この麒麟はここに置いてもしょうがないから、妹妹が持って行ってよ。これを見ればここで遊んだ日々を思い出して心穏やかになれるだろうからさ」。 湘雲の目には泉のように涙が湧き出てきます。宝玉はしばらく彼女を慰め、麒麟を首にかけてやりました。
湘雲はしばらく様々な思いが交錯し、言いたいことは山のようにありながら何も言葉が出ませんでした。「宝のお兄様、私たちまた会えますよね!」と一声叫んで嗚咽し、泣き出しました。宝玉はハンカチで涙を拭いてやり、「ずっと妹妹のことを思っているから、妹妹は安心してお行き」。 湘雲は泣きじゃくりながら頷きます。
さて、史湘雲が行ってしまうと、宝玉と宝釵はしばらく嘆息やみませんでした。鳳姐は次から次へと家事を裁いていましたが、体が支えられなくなり、ついには病床に伏してしまいました。
その日、宝玉は賈芸に頼まれた事を思い出し、鳳姐の部屋にやってきました。見れば鳳姐はベッドで横になり、顔は土気色をしています。青のラシャ地の上衣を着ているので、血色の悪さがさらに際立ちます。宝玉は急いであいさつし、「お姉様は具合が悪いと聞きましたが、いくらか良くはなりましたか? どちらの医者の薬を飲まれましたか? 食べたいものがあれば、言ってくれれば持ってきますよ」。 鳳姐は笑って、「良く気が利くわね。食べたい物があれば言うわね。今、王太医の薬を飲んだからだいぶ楽になったわ」。
平児がお茶を注いできたので、宝玉は受け取って「お姉さん、ありがとう」と言うと、平児は笑って、「結婚されてますます礼儀正しくなられましたね」。 鳳姐は「そうそう、宝妹妹は元気にしている? 時間があったら来てくれるように言ってちょうだい」と言うので、宝玉ははいと答えました。
巧姐が宝玉にあいさつに来たので、宝玉は手を取って尋ねます。「嬢ちゃんもずいぶん大きくなったね。勉強はしているのかい? 暇な時に叔母上(熙鳳)に教わったらいいのに」。 巧姐は「母は字が読めないし、父は忙しいんです。時間がある時は大伯母様(王夫人)のところで唐詩を習っているんですよ」。 宝玉は「今度は二番目の叔母(宝釵)が出来て、どうせすることもないんだから、納得のいかないことがあったら聞きにきたらいいよ」。 鳳姐は「することがないなんて言わないで。私は病気だから、彼女に手伝いに来てもらえるんなら有り難いんだけど」。 平児は「宝の奥様はもともと腕の立つ方ですけど、今面倒をおかけするのは賛成しかねますわ」。 宝玉は「それを言うなら、今は平のお姉さんが一番苦労されてますよね。実はお姉様(鳳姐)にお願いがあって来たんですが、お姉様はご病気ですし、こちらもお忙しそうですから、またにします」。
鳳姐が「いったいどんなこと? 言ってごらんなさい」と言うので、宝玉は「長屋の芸児に妻を探してくれるよう頼まれました。屋敷の侍女なら世慣れているだろうからって言うんです。うちの部屋では晴雯が亡くなり、四児と芳官は出て行ってしまい、宝姐姐が来たばかりなので、この件を持ち出すのもうまくないんです。私が思いますに、お姉様のところは人も多く、みんな気心も知れています。芸児に相応しい人を探してはいただけませんか?」 鳳姐は「芸児のことは気に留めておくわ。うちの部屋は人は多いけど、平児と小紅を除けば気が利かない者ばかりよ。私が病気になっちゃったから平児はあれこれしてもらうのに必要だし、小紅もしばらく手が空かないわ。しばらく時間をおいてからまた相談しましょう」。 宝玉は「でしたら小紅が一番良いです。芸児とは似合いの二人ですよ。今は手が空かないのなら、しばらくしてからで結構です。お姉様、どうか芸児のことを気に掛けておいてください」。 鳳姐は「覚えておくわ。芸児はいい子だから小紅も喜ぶでしょう。芸児にはしっかり仕事をするように言ってちょうだい。そうすれば、時期が来たらあんたの結婚を取り仕切ってあげるからって!」 宝玉はこれを聞いて嬉しくなります。
そこへ小紅が報告に来たので、宝玉は笑いながら彼女の頭から足の先まで眺めます。小紅は聡明なので、これを不審に思います。宝玉様と賈芸さんは仲が良いから、自分の事を話したのかもしれない。何日かしたら賈芸さんに尋ねれば分かるだろう。そう考え、恥ずかしがったりせずに、逆に笑って宝玉に尋ねます。「若様は一人でいらっしゃったんです? 宝の奥様はお元気ですか?」 宝玉は「あの人は璉のお兄様が在宅じゃないかと思って来なかったんだ。部屋で針仕事をしているよ」。 鳳姐は笑って、「あんたたち聞いた? あの人が昼間っから部屋にいるもんですか。宝妹妹には構わないからいらっしゃいって言ってちょうだい! 私は横になっているから人と話がしたいのよ」。 宝玉ははいと答えて辞そうとすると、平児が入ってきて、「襲人さんが昨日、梨花のシロップが欲しいって来たんです。宝の奥様が夜少し咳が出るんですって。昨日は見つけらなかったんですが、やっと探し出しましたので、すみませんが持って行ってください」。
宝玉はこれを受け取り、辞して出ると、まっすぐ自分の部屋に戻り、襲人にシロップを渡しました。また、宝釵には鳳姐が来てもらいたがっていることを話しました。宝釵は「あとで会いに行ってきます。さっき鴛鴦さんが経典を届けてよこしました。元妃娘娘があなたに写経してもらいたいんですって」。 宝玉は経典を受け取って、「元春娘娘はいったいどうしたんだろう?」 宝釵は「あまりお加減がよろしくないので、罪滅ぼしの法事を営み、あなたに写経してもらった金剛経を娘娘自らが読まれるんですって」。 宝玉は「あんたは鳳姐のところに行っておいで。私は早速写経をするから」と言って、襲人を宝釵と一緒に行かせ、秋紋と麝月に室内で香を焚かせると、手を洗い、しばらく独座してから経典を取り出し、自ら墨を磨って一字一字書写するのでした。
さて賈母は、半日宝玉に会わなかったので、人を遣って尋ねさせようとしました。鴛鴦は「ご隠居様はお忘れですか? 宝の若様には娘娘の経典を書写してもらっているじゃないですか。今頃ちょうど写経されているのではありませんか」。 賈母は「そうだったね。娘娘には宝玉が書写したお経を読んで、早く良くなってもらいたいもんだね。今この屋敷では去る者は去り、亡くなる者は亡くなり、病める者は病んでいる。薛の奥さんのところでは梅翰林が知らせを寄こして、来年には琴の嬢ちゃんの婚儀を執り行うとのことだし、また一人いなくなってしまうんだね」。 鴛鴦は「琴のお嬢様が行かれても、邢のお嬢様をお迎えしますもの、変わらないんじゃないですか」。 賈母は「邢の嬢ちゃんはうちの園に住んでいるんだもの。ここを出て嫁に入るんだから、代わりにはならないよ。園の中でも窮屈な思いをしているようだね。宝玉が結婚した日も、あの子はいつもの服を着ていたよ。あの赤い綸子の上着は、きっと鳳ちゃんがあげたものだろうね。髪に花をいくつか付けただけで可哀想だったよ。鳳ちゃんは病気だから煩わせるのもまずいし、あの赤紫色のチンチラの毛皮の坎肩(かんけん/袖のない上着)を贈ってあげようじゃないか。上の奥方(邢夫人)には知らせなくてもいいからね。琴の嬢ちゃんにあげた時も、上の奥方は少し偏屈だから、あげるのもまずいと思ったんだよ」。 鴛鴦は「ご隠居様がどなたかに何かを差し上げたところで、大奥様はきっとあまり気にされませんわ。それに、邢のお嬢様はもう薛の奥方様のところの方ですけど、今はまだこちらに住んでいますので、何か足りないものがあっても薛の奥方様が差し上げるのは都合が悪いでしょうから、私共が差し上げるべきでしょうね」。 賈母は頷いて、「そういうことなら、鳳釵と環佩(円形の飾り玉)も贈っておあげ」。
鴛鴦はしばらくかかって用意をし、賈母に目通ししてもらいます。賈母は赤い折枝文のスカートと狐の毛皮の上着が足してあるのを見て、「あんたの見立てはいいね、早く贈っておあげ」。 鴛鴦は二人の侍女見習に持たせ、自分は後に付いて行きました。薛家の人たちはこれを聞いて賈母に感謝しました。邢夫人も岫煙が賈母から装飾品や衣服をもらったと聞いて喜びますが、口では「あの子もそんな品は持っていたけど、上京が急だったので南方に置いてきてしまったのさ」とうそぶくのでした。人々は邢夫人の人柄を知っていますので何も言いませんでした。続きはどうなるでしょうか、次回をお聞きください。