賈環はそれが鳳姐と宝玉を指しているのが分かったので、「あんたは以前にも馬道婆に頼んで二人をやっつけようとしたじゃないか。また出来もせずに恥をかくのがオチだろうさ。少し頭を休めたほうがいいんじゃないのか」と言うと、趙氏はカッとなって、「前回やっつけられなかったから仕方がないって言うのかい? あいつらに好き勝手させておいたら、私たちはずっとうだつが上がらないままじゃないか」。 賈環は「だったらあんたが万全の策を考え出しなよ。話をするのはそれからだね」と言って彩雲に会いに行こうとします。趙氏はキリキリと歯噛みして罵り、「この意気地なしめ! 私はお前のために言っているんじゃないか。私があの二人の内臓を引きずり出してやるから見ていな! お前が毎日まともなことはしないで彩雲といちゃついているのは分かっているんだ。人様に見られて、いい年をしてまだこんな有様だと言われたら私は庇いきれないよ!」 賈環は「あんたに庇ってくれなんて頼んでもいないじゃないか!」と吐き捨てて、さっさと姿を消してしまいました。
趙氏は賈環が出て行ってしまうと傍らで呆然としていましたが、王夫人が人を寄越して呼びに来たので出て行きました。
賈府では賈母が亡くなると頼りになる者が少なくなり、趙氏だけでなく、邢夫人も不満をこぼしていました。ある日、賈赦に向かって、「年を越したら璉児の嫁を呼んでください。うちでは他に家政を管理する者がいないんですから」。 賈赦は「ご隠居様がお亡くなりになった今、うちを支えられるのは璉児の嫁だけだからな。この屋敷はもともと彼女が取り仕切っていたんだから、今来るようにと言ったら、我々が財産の分配を求めているようなものだな」。 邢夫人は「ちゃんと分配してもらえるんですか? 彼女たちに管理させるからには、どれだけ誤魔化されても私たちには分からないんですよ!」 賈赦は「ご隠居様が世を去られた今が良い機会じゃないか? 何度も言うが、ここ数年は出るものが多く、入るものは少なかったんだから、それほど誤魔化せるとは思えんよ」。 邢夫人は少し不満でしたが、それまでとしました。そして話をまとめ、鳳姐にそれぞれの帳簿を精算させ、賈赦のところに持って来させることにしました。鳳姐はこの話を聞いて腹を立てたものの、胸中ではあれこれと思い謀るのでした。
その日、趙氏は品物を用意して邢夫人に会いに来ました。「奥方様と大殿様は近頃ご機嫌いかがですか?」と尋ねると、邢夫人は「喪に服しているし、大殿様はすっかり元気がないんだよ」。 趙氏は「大殿様はどなたかのなさりようを気にされているんでしょう。奥方様も腹を決められた方がよろしいですわ」。 邢夫人は鳳姐のことを言っていることが分かりましたが、わざと尋ねます。「あんたは何のことを言っているんだい?」 趙氏は口を尖らせて、「あの方のことに決まってるじゃありませんか。これまでご隠居様の威を笠に着て、奥方様でさえ彼女の言いなりで、道理も何もありませんでしたわ。この数年家を切り盛りしていたんですから、この機会に好き勝手をしないわけがないじゃありませんか。奥方様が呼び出して問い質すべきですわ」。 邢夫人も不満を覚えてはいましたが、趙氏の前でそれを持ち出すわけにもいかず、淡々と「時期が来たらまた話しましょう。今はあの人に管理させるしかないんだから」。 趙氏はしばらく話をしてから辞しました。
さてその日、賈環がこっそりと町へ遊びに出かけると、周瑞の義子の何三にばったり出会いました。何三は急ぎ敬礼をし、「三の若様はどちらへお出でですか?」と尋ねると、賈環は「家にいるとくさくさするので気晴らしに出て来たんだ。どこか面白いところを知らないかい?」 何三は「この先に私が酒を売っている酒楼があり、盲目の上手な女講釈師がおりますよ。三の若様、ひとつお聞きになってはいかがですか?」 賈環は「そりゃいいや! 何だ、あんたは屋敷を出てから酒を売って生計を立てていたのか」。 何三は嘆じて、「三の若様には正直に申し上げます。璉二の旦那様に追い出され、義母も私を許しませんでした。そこでここの酒楼の主人に頼みこみ、壺を担いで酒を売ってどうにか生計を立てています。ちょうど今、主人に酒を売ってくるように言いつかったところですので、三の若様は先に登って上がっていてください。私もすぐに参りますので」。 賈環は「あんたが用事があるなら、先に行って上の酒楼で待っているよ」と言い、何三は出かけていきました。
賈環が酒楼に登り、席を選んで座ると、店の手代がやってきて声をかけます。賈環は「上等のやつを持ってきてくれ」と言い、手代は急ぎ準備を始めます。
しばらくすると、何三が酒を手に携えて戻ってきて帳場に引き渡し、賈環のところへやって来て、「三の若様、お待たせしました」。 賈環は「構わないよ。あんたも飲んでくれ」。 何三は礼を述べて賈環に酒を注ぎ、「今日は三の若様にお時間ができて何よりでした。きっと上の方々に拘束されていらっしゃったんでしょうから。実のところ、璉二の旦那様もいつも外では遊び回っていますからね。他の人は知らないと思って、逆に三の若様を縛りつけているんですよ」。
賈環が話を続けようとすると、立派な身なりの男が入ってきて、何三を見て声を掛けます。「おや、何三の兄貴じゃないか? 久しぶりだね。私のことを覚えているかい?」
何三はしばらく見つめてから「おおっ」と声を上げ、「張華の兄貴じゃないか、久しぶりだね。随分と出世したみたいだけど、あんたは一別以来どうしていたんだい? お母堂様は元気かい? 今日はこちらに何の用だい?」 張華は手招きをして、「こっちで二人で飲もうじゃないか、じっくり聞かせてあげるからさ」。 何三は賈環のほうを振り向いて、「環の若様、ちょっとお一人で飲んでいてください。すぐに戻りますから」。 賈環はその人の服装が立派なので、強いて引き留めもせずに頷き、何三は張華のテーブルに移りました。
張華は「話せば長くなるんだが、私は賈府の旦那たちに離婚に追い込まれ、璉二の旦那が強引に自分の妻にしたので、やむなく都を逃れて外地に行ったんだ。親父は途中で病死してしまい、私は頼るべき身寄りもないまま関外(注:清代には遼寧・吉林・黒竜江の東北三省を指した)に落ち延びたんだが、私の祖父が義兄弟の契りを結んでいた兪の旦那の息子である兪大人がそこの知府に任命されたと聞き、私はなんとか身を寄せることができたんだ。兪大人に厚遇され、祖父のお陰もあって、いただいた銀子を元手に商売を始め、今では関外に何カ所かの店を開き、商売は繁盛しているよ。私は買い入れに来たんだが、兪大人が既に都に栄転され、今は京兆尹(けいちょういん)の任にあると聞いたので、彼の御両親にお礼を述べに行くところなんだ」。 何三はこれを聞くと拱手の礼をして、「おめでとう。張の旦那がこんなに出世されたんなら、早く素敵な奥方を娶って幸せになってくれ! 過去の事なんて忘れてしまいなよ!」と言うと、張華は何度も溜息をつきました。
賈環は傍らではっきりと聞いて思わず心が動き、こう思うのでした。何とこの人は尤二姐の元夫だったのか。うちの母は宝玉、鳳姐の二人をやっつけたいと思っているけど、これは取っ掛かりになるんじゃないだろうか! そこで、何三に向かって、「何三、お客様がお出でなら、お招きして三人で飲もうじゃないか。私一人をほっぽり置かないでくれよ」。 何三は急ぎ供手して、張華に向かって、「張の旦那はお分かりになりませんか? こちらは賈府の環の三の若様で、璉二の旦那の弟君ですよ」。
張華はこれを聞くと、びっくりして立ち上がります。賈環は近寄って供手し、「張の兄貴は誤解しているようだね。どうか座ってくれ。私は賈璉の弟だけど、あの人は傲慢で意地が悪いので馬が合わないんだ。あの人を懲らしめることができないものかと鬱憤を溜めていたところなんだ」。 張華は呆気にとられてしばらく彼を見つめてから、ふうっと大きく息を吐きました。賈環は彼を座らせ、急ぎ料理を追加して酒を換えさせ、三人で賈璉と鳳姐の数々の悪事について語り合いました。
何三には賈璉に追い出された不満があり、賈環と趙氏は鳳姐をやっつけたいものの手を出せないもどかしさがありました。今ここに張華が現われ、バックに京兆尹の兪大人がついているのを知ると、これこそ賈璉と鳳姐を倒す千載一遇のチャンスだと思い、二人はついに張華に賈璉を告発するようそそのかします。
張華はなおも躊躇しますが、何三は彼の肩を叩いて、「張の旦那! 生きるということは懸命に頑張るということじゃないか。奥さんを人様に奪われておいて、一声も上げないなんて沽券に関わるぜ?」 賈環は「兪大人があんたの後ろ盾となってくれるのに、何を恐れるんだい? あんたがこんな屈辱を受けていたのを知ったら、兪大人だって見て見ぬふりはしないだろう? あんたは思い切って告発さえしてくれればいいのさ。我々が間髪入れずに重ねて告発すれば心配はなかろう」。
折よく賈芹も酒を飲みにやって来ましたが、何三は彼も恨みを募らせていることを知っていましたので、急ぎ招いて一緒に座らせ、先ほどの事を話して聞かせました。賈環は「ここにみんなの力を結集すれば、後々みんなにメリットがあるだろう。私、賈環がいずれ世襲職を継いだあかつきには屋敷において相応の地位を約束するよ。張の兄貴もいずれこの恩にはしっかり報いるよ」。
賈芹はちょっと考えて、「三の若様はお忘れですか? 璉二の叔母上が公金である月の手当を使って高利貸しを行い、暴利を貪っていることはみんな知っているじゃないですか! 私がお屋敷で仕事をしていた時、毎月の手当がいつも数日ずつ遅れるので、小坊主や小道士は恨み言を言っていました。私が問い質しても、執事の連中は、どうせ数日すれば届くんだから黙っていろと言うんですよ。三の若様、いかがです? これは告発できませんか?」 賈環は「出来ないわけないだろう。それは法に反することだ。動かぬ証拠をつかんで告発してしまえばいい。あんたが上手くやってくれれば、いずれたんまりと褒美をあげるし、別嬪の侍女も買ってあげるよ」。 賈芹はこれを聞いて喜びます。
さて、張華と賈芹がいなくなると、賈環はこっそりと何三に宝玉を倒す相談を持ちかけます。何三は賈環から褒美をもらえるとあって、もちろん承知します。賈環は得意満面でした。
もともと賈環は年若く無知であり、賈璉、鳳姐、宝玉を告訴してやっつけさえすれば、自分が世襲職を継ぎ、屋敷内の全てを好き勝手にできるものと思っていました。嬉しさを抑えられずに、帰ると趙氏に話をしました。趙氏もそもそも見識のない人ですので、賈環の話を聞くととても喜んで賈環を誉めるのでした。
さて宝釵は、宝玉と結婚した後も日々気苦労が絶えませんでした。宝玉の心には黛玉しかおらず、時折自分に話しかけてくる時に、心を込めて二言三言問いかけてみてもどうにもなりません。宝釵も気持ちが塞ぎ、この日もまた宝玉が出かけて行ってしまい、襲人と鶯児が針仕事をしていたので見に来ました。
鶯児は宝玉の靴を作っており、襲人は腹掛けを縫っていました。宝釵はこれを手に取って、「あんたもますます針の腕が上達したわね」。 襲人は「奥様が縫われたものの方が遥かに精緻ですし、二の若様も気に入って身に付けているじゃないですか」。
宝釵は嘆息して、「あれはいいとして、何故か知らないけど、あの人は私が作った巾着は付けようとせず、あんたの巾着を毎日ぶらさげているわね」。 襲人は笑って、「あの日は奥様はいらっしゃいませんでしたね。私があの巾着をこしらえて、まだ紐を通していなかったんですが、若様がいらっしゃってじっくりと眺め、はあっと溜息をついてそれをくれって言うんです。私はふざけて、これは奥様に作ったものですから、奥様に頼んでくださいって言ったんですよ。なのに若様はお姉様お姉様(好姐姐)と騒いで半日も頼みこむものですからとうとう差し上げてしまったんですわ」。
宝釵は笑って、「あなたにおめでたいことが訪れるんじゃないの? あの人にこんなに重用されるなんて」。 襲人はくすっと笑って、「奥様、それは誤解です。私がこれまで若様に香袋を作って差し上げても絶対に身に付けなかったんですよ。若様が喜んであれを身に付けているのにはわけがあるんです。昔、若様と林のお嬢様がいさかいを起こして、林のお嬢様が香袋を切ろうとしたことがあったんですが、若様が懇願してなんとか切られずに済み、ずっと身に付けていたんです。私がその香袋をまねて細かく刺繍したので、若様がご覧になって欲しがられたんです。奥様どうです? これでも私を重用していると言えますか? 林のお嬢様を重用なさっているんじゃないでしょうか?」 宝釵は笑って、「その香袋はそもそも林のお嬢さんが作ったものだったの?」 襲人は「毎日身に付けていらっしゃったんですが、私が模写してから林のお嬢様が亡くなり、若様はあれを焼いて林のお嬢様を祀られたんです」。 宝釵は嘆息して、「道理であんたが刺繍したものを喜んだわけね。つまりあなたは彼の心を汲み取ったというじゃないの」。
襲人は笑って、「奥様はご存知ありませんが、二の若様は全く勉強に打ち込もうとされないので数日前に私はうそぶいたんです。林のお嬢様が夢枕に立たれ、若様に勉強に励むよう諭してほしい、挙試に及第し、いずれ進士になれば父母に孝行を尽くすことになりますとおっしゃったんですよって。そしたら若様は何と言ったと思います?」 宝釵は笑って、「あんたはあの人の扱い方を心得ているのね。信じてくれたんならいいけれど」。 襲人は嘆息して、「信じるもんですか。若様が言うには、林のお嬢様が私に受験しろなんて言うはずがない、あんたがいつもそう思っているからそんな夢を見たんだろうって」。 宝釵はこれを聞いて嘆息やみません。
彼女たちがそんな話をしていると、賈環が得意満面にやって来たので、宝釵は急ぎ立ち上がって席を勧め、鶯児に上等なお茶を注がせます。「環ちゃんは今日はわざわざ遊びに来てくれたのね」と言い、また「叔母様(趙氏)はお元気?」と尋ねます。
賈環は「相変わらずですよ。今日は暇を見てお義姉様に会いに来ただけですからお構いなく」と言いながら、鶯児がこしらえたばかりの靴を見て、「この靴はとてもよく出来ているね。お姐ちゃん、私にくださいよ。後でお礼をするからさ」。 鶯児は笑って、「これは宝の若様に差し上げるのにこしらえたものなんです。三の若様が御所望でしたら、明日もう一つ作って差し上げましょう」。
すると賈環はカッとなって靴を投げ捨て、せせら笑って言いました。「誰があんたの靴なんか珍しがるもんか! くれないんなら私も要らないよ! そのうちあんたは尻尾を振って届けてくる羽目になるさ。でもそんなにお高くとまらないでくれよ。三の若様は眼中にないようだけど、いつの日かあんたは私を認めざるをえないんだからさ!」
鶯児はこれを聞くと、あまりの怒りに泣き出して、「私がどうして偉ぶって若様を眼中に置かないことがありましょう。私は明日靴を作ってお送りすると言っただけじゃないですか」。
宝釵は慌てて鶯児を叱りつけ、「環ちゃんが気に入ったのであれば同じものを差し上げなさい。あとでもう一つ作ればいい話でしょう?」 鶯児は泣きじゃくり、「若様の部屋にも針仕事をする人はいるのに、どうしてわざわざ私たちを煩わせるんですか!」
宝釵は襲人に目配せし、別の靴を持ってきて賈環に差し出しますが、賈環は向かっ腹を立て、「あんたたちが要らないのを寄越すんなら私も要らないさ!」と言って靴を地面に投げ捨て、足で踏みつけると憤慨して帰りました。
賈環は戻ると威張り散らしてスッキリしたようで嬉しくなり、更に尾ひれを付けて趙氏に告げました。趙氏はふんと鼻で笑って、「あまりお高くとまるもんじゃないよ。あとですり寄ってきたってどうにもならないのにね!」 母子二人はしばらく話し合いました。
さて賈環は、賈璉や鳳姐たちを早く告訴してほしいと思って数日待ちましたが、何の連絡もありません。そこで、賈環は探りに出かけ、さらに張華と賈芹を探しに行きました。
果たして数日経つと、賈璉が告訴されたという話が伝わり、鳳姐は慌てふためき、屋敷内の人々はあれこれと話をしていました。趙氏は菩薩を伏し拝み、賈環は嬉しくてたまりませんでした。
鳳姐は賈璉が張華に訴えられたと聞くと、あまりの怒りに気を失わんばかり。声を荒げて「旺児を呼んでちょうだい!」と叫びます。すぐに旺児がやって来ますが、鳳姐の顔色を見ると、思わずひざまずいてニンニクを突き砕くようにペコペコと叩頭します。鳳姐はその様子をしばらく見てから厳しい声で、「旺児、ずいぶんなことをしてくれたわね! 今、うちの旦那が張という者に訴えられたんだけど、あんたは私に、張は京口の付近で袋叩きにされて死んだと言ったわよね!」 旺児は魂も飛び出さんばかりに驚き、慌てて叩頭し、ひれ伏して言いました。「私がどうして奥方様を騙したりいたしましょう。私が奴を探して京口の付近まで行くと、張という二十歳あまりの者が、容貌は奥方様が言われた者にとても似ておりまして、たんまり銀子を持っていたために袋叩きにされて死んだと聞きましたので、屋敷に戻って奥方様に報告した次第です。まさか取り違えだったとは。手前の不手際です。どうかお許しを」と言って叩頭をやめません。
これを見て鳳姐は考え直します。この事は旺児一人しか知らないことだ。彼を追い詰めて逃げ場をなくし、張華と結託されでもしたらますます収拾が難しくなる。事ここに至れば、旺児を懐柔した方が良いだろう。そこで、表情を改めてこう言います。「あんたは私の手で苦労して育てた人だもの、私を騙す理由がないわね。偽の情報をつかまされるのも仕方ないし、こんなことであんたを罰したりはしないわ」。
そして、旺児を起こして座らせ、「今は万全の策を考えるべきね。あんたはまず五百両の銀子で役人を買収してちょうだい。張華という死に損ないの貧乏人にも何両かの銀子をやって脅しつけ、訴状を撤回させて。さもないと虚偽告訴の罪で問い糾してやるからって言うのよ」。 旺児ははいと答えて出て行こうとしますが、鳳姐が「旺児、戻っておいで!」と呼ぶのでふたたび戻ってきました。鳳児は大きく目を見開いて、「あんたは物わかりのいい人よね。私たちの事はみんなあんたにやらせた事なんだから、何事もなく済めばあんたの責任もないわね。事件になればあんたも巻き込まれるんだから、注意して事を運んでちょうだい!」 旺児は何度も「はい」と答え、「奥方様、ご安心ください。私がどんなに愚か者でも損得は心得ております。それに私は生涯奥方様と旦那様の大恩を忘れることはありません」。 鳳姐は頷いて「それなら結構、では取りかかってちょうだい!」と言うと、旺児はようやく退出しました。
しばらくすると、林之孝の妻が慌てて駆け込んできて報告します。「まずい、二の旦那様がお白洲に連行されたよ!」 旺児は慌てて外に駆け出して行きます。
鳳姐は天地がひっくり返ったように感じ、そのまま昏倒しました。平児たちは慌てて駆けつけ、呼びかけるとともに、順気安神丸(気つけ薬)を鳳姐に服用させます。すると鳳姐はゆっくりと目を覚まし、平児の手を取って涙を流して尋ねます。「うちの旦那様はどうなるんだい? 聞きに行った者はいないのかい?」 平児は「旺児が向かいましたのでご安心ください。きっと尋問に連行されただけで、すぐに戻って来られますわ」。 鳳姐は平児の手を借りて、王夫人のところに報告に行こうとします。平児は「大殿様と奥方様はご隠居様の部屋にいらっしゃるそうです」。
鳳姐は急いで裏庭から入ってきました。見れば賈政の顔は土気色で、室内を入ったり来たりし、かぶりを振りながら嘆息して言います。「璉児がこんなことになるとは思いも寄らなかった! 娘娘が寵愛を失って我らの家運も尽き、この先どうなることかと思っていたが、こんな騒ぎになるとは!」 そう言っていると、賈赦や邢夫人たちもよろめきながら部屋に入ってきました。賈赦は「みんな璉児の碌でなしがしでかしたことだ。状勢も良くないようだ! 尤二姐の前夫については以前と事情が変わり、京兆尹と縁戚関係にあると聞いた」。 賈政はようやくいきさつを知り、額に汗をにじませます。
この間、屋敷内には報告の者が次々とやって来ますが、みな心を沈ませ、満面に汗をかいていました。しばらくして、賈珍が息を切らしながら入ってきて、「大殿様は賈雨村が弾劾されたことをご存知ですか?」 賈赦と賈政はこれを聞くとびっくりして、「どんな事情で弾劾されたんだ?」 賈珍は「なんでも薛の旦那の件と関わりがあるようです。もともと彼の手下として仕事をしていた門番が告発し、薛の旦那が馮淵を打ち殺して彼が庇い立てしたことを訴え出たんだそうです」。 王夫人は「あの案件はとうに終わったことなのに、門番と何の関係があるんだい?」 賈珍は嘆息して、「その門番は内情を熟知しており、何でも賈雨村がこの案件を処理する際に彼の指示を受けたものの、その後口実を設けて追い出されたので、その不正を訴えたんだそうです。彼が権勢をもった富豪と結託して凶悪犯を庇い立てし、非道を行い、世間を欺いたものであると。今ではその名前も明らかにして、凶悪犯は我々の屋敷にいると申しています」。 賈政と王夫人はこれを聞くと魂が飛び出るほど驚き、どうしたらよいのか分かりません。
賈珍はさらに賈政を傍らに引っ張ってこっそりと言います。「殿はまだご存知ないのでしょうが、今ほど孫の婿殿も賈雨村を告発しました。うちの大殿様のために十二枚の古扇子を取り上げ、石阿呆という者を死に至らしめたとのことです。何でも孫の婿殿と雨村は昵懇の間柄で、二人はよく一緒に酒を飲んで話をしていたそうです。その後、おそらく金銭のトラブルで仲違いし、反目して恨みを抱いていたんでしょう。孫紹祖が雨村を告発するという手段に出たようです。一箭双雕(≒一石二鳥)を狙ってうちの大殿様を巻き込んだんでしょうな。賈雨村は形勢不利と見て、なりふり構わず大殿様に責任を押しつけ、その十二枚の扇子はそもそも大殿様に強要されたもので、大殿様の権勢に逆らえずにやったことだと言って切り抜けたんです」。
賈政はこれを聞くと足を踏みならして嘆息し、「終わりだ、終わりだ。全ての災いがまとめて来てしまった!」と言いながら、そもそも賈雨村と関わりをもつのではなかったと深く後悔していました。今は交際していないとはいえ、いかんせん同族の者であり、彼が最初に知府になったのも自分が推薦したからだ。こんな節操のない恥知らずで、変わり身が早く、井戸に落ちたものに石を投げる(落井下石)ような輩だったとは思わなかった。こうして罪を犯し、巻き添えを食ってしまったことは悔やんでも悔やみきれない。
一家の人々は不安に苛まれ、針の筵に座っているかのようでした。さらに、探りに行った者が戻って報告し、「二の旦那様は既にお白洲での審議を終えられましたが、何でも高利貸しをして暴利で取り立てていたことを訴えた者がおり、今はもう牢獄に入れられてしまいました」。 賈政はびっくり仰天して長嘆し、「天よ、天よ、我らの祖先は朝廷にお仕えして勲功を立てたというのに、今こうして一敗地に塗れるとは思いも寄りませんでした!」
鳳姐は高利貸をしたと聞くと、驚いて魂も消し飛び、急に高熱を発したように感じてそのまま昏倒しました。王夫人はすぐに玉釧児に安神養息丸を持ってこさせ、平児に仕えさせます。鳳姐は一刻(十五分)ほどで目を覚まし、王夫人を見て涙を流しました。王夫人も涙を浮かべ、平児に命じて部屋に戻って休ませます。
みんなが取り乱していると、薛家の者からも報告が入ります。「奥方様、お嬢様、早くお出でください。私どもの奥様(夏金桂)が旦那様を告発されました。旦那様は人殺しの凶悪犯で、この地に逃げてきて親戚に匿われており、今こうして知ったからには離別したいとのことです」。 王夫人は急ぎ宝釵に行くように言い、「あんたの母上に伝えておくれ。私たちのところでもこんな事になっているからって。私はしばらくここを離れることができないけど、あんたが少しでも安心させておくれ」。 宝釵ははいと答え、鶯児を連れて出て行きました。
賈政は涙をポロポロとこぼし、陛下に「罪己の書」を書こうとしました。そこへ趙氏が髪を振り乱して怒鳴り込んできて、大声で泣き喚きます。「とんでもないことだよ! 私どもの家はみんなあいつにぶち壊されるんだ。私たちの月のお手当で高利貸しをしていたそうじゃないか! あの女に弁償させておくれ。あいつばかりが美味い汁を吸って私たちが巻き添えを食ったらたまったもんじゃないよ!」
一同はびっくりし、趙氏がこんな大騒ぎをするとは思わなかったので、どうしていいのか分かりませんでした。しかし、賈政は厳しい声で叱りつけ、「無知な婆あめ、さっさとその口を閉じて出て行きなさい!」 趙氏は泣きながら、「騒いだからどうだって言うんです? この訴訟沙汰は彼女が招いたものじゃないですか。私たちを騙しておきながら、これでおしまいにするわけじゃないでしょうね?」
邢夫人も趙氏の訴えはなるほど道理だと思いました。よくよく考えると、尤二姐の件、薛蟠の件、高利貸しの件は全て自分と関係のないことだ。どうして彼らのとばっちりを受けないといけないのか。そこで彼女に同調して、「趙氏の言うことももっともだよ! この機会に帳簿をきっちり精算して、財産を各部屋に分配すれば、一緒くたに鍋で煮られなくて済むだろうし、少し余るものも出てくるんじゃないかい?」 賈政は地団駄を踏んで嘆息し、「事態は何も解決していないのに、財産分けなんか出来るわけがなかろう。みんなで外部への対処を考えるしかないんだ! お上に罪を問われたら、うちは本当におしまいなんだぞ!」と言って涙を落とし、嘆息が止みません。邢夫人、趙氏もこれには言葉がありませんでした。
こちらでは探りに行った者が走馬灯のように次々とやってきます。賈赦と賈政は後ろ手を組んでうなだれ、ふらふらと歩き回り、立ち止まっては耳を傾けます。その様子は巨大な災いの前触れのようでした。続きはどうなるでしょうか、次回をお聞きください。