薛未亡人は夜遅くに戻ってきました。薛蟠は今なお獄中にあり、いつ出獄できるのかも分からないことを思い、目から涙がこぼれます。薛蝌に尋ねても先行きは見えず、銀子を無駄につぎ込んでいるにすぎません。まして、嫁(金桂)が告発して蟠と関係を断っており、自分には頼るところもなく、どうしたらいいんだろう! 考えるほど悲しみが募ります。
その日、薛未亡人は宝琴を連れて、再び王夫人と宝釵の見舞いにやって来ました。姉妹二人は顔を合わせて心中の事を話します。王夫人は薛未亡人を慰めて、「あんたも気を紛らわせたらいいわよ。蟠ちゃんは獄中にいるとは言え、今すぐに命の危険があるわけじゃないんだし、遅かれ早かれ出てこられるわよ。あんたの家なら多少の銀子をつぎこんでも衣食に困るほどじゃないし、うちよりずっとましだわ。うちには数十人いるから、毎日の食事だけでも大変なのよ。幸い北静王様にお助けいただいて千両の銀子をお借りできたし、あんたのところからも援助してもらったけど、その日暮らしだし、借金頼みの生活なんて長くは続かないし。璉児が出獄したことだし、南京には祖先の財産も残っているから、いずれ鳳ちゃんが出獄してきたら、璉児に南に行ってもらって、金銭をいくらか持ってきてもらうとするわ」。 薛未亡人は嘆息して、「うちだって今じゃあジリ貧よ。蟠児が獄に入ってからというもの、蝌児は毎日蟠児のことで駆け回り、銀子を湯水のように使っている有様なのよ。商売だって仕切る者がいないし、店員たちは好き勝手にやっているし、今日だって欠損が出たって騒いでいるわ! 破産して店を閉めたところもあるし、残りの三、四件は蝌児に精算に行かせたけど、全部で一万両ちょっとにしかならなかったわ。蟠児にはまだどれだけ使うか分からないし、琴ちゃんの婚儀もあるし、蝌児も嫁を取らないといけない。一、二年のうちに、みんな飢え苦しむんじゃないかしら」。 言い終えて、王夫人ともども嘆息止みません。
宝釵が傍らから口を出し、「母上もそう気を揉むことはありませんわ。お義姉様とお兄様の縁が切れたのは正解でしたし、私に言わせてもらえれば、蝌児と邢のお嬢さんの婚儀は日を選んで行ってしまえばいいこと。一つには、家を切り盛りしてくれる人ができるわけで、母上の心配も減りましょうでしょうが、蝌児にも良き相談相手となりましょう。二つには、邢のお嬢さんは苦労を厭わない人ですし、上手くやり繰りできれば、生活費だって省くことができましょう」。 薛未亡人は嘆息して、「邢の嬢ちゃんとの婚儀は私だって望まないわけじゃないよ。でも蝌児が承知しない。家中では次から次と厄介事が起こり、自分の婚儀に構っている場合じゃない。来年になったら琴ちゃんのことを話そうって言うだけなんだもの」。
宝釵は薛蝌を呼び、倹約のうえで慶事を行うよう勧めますが、薛蝌はかぶりを振ります。宝釵は、「邢のお嬢さんがお嫁に来れば、母上もあんたも頼りに出来るんですよ。今や家中に人手がなく、琴ちゃんのことだっていずれ片付けないといけないのよ。それに、邢のお嬢さんはずっと生活に苦しんでいるんだから、ちゃんと考えてあげないと」。 薛蝌は嘆息して、「姐上の仰ることは道理です。しかし、私が無能なばかりに、あれほどの家産をこの手から失ってしまいました。兄上はまだ獄中にあり、妹がまだ嫁いでいないのに、私がどうして先に結婚できましょう。いずれ兄上が出所された時に合わせる顔がありません!」 宝釵は笑って、「あんたも心配性ね! 兄はそんなことに拘らないでしょうし、それこそ出て来られたら、あんたには頭が上がらないわ。母はずっと病気がちだし、来年琴ちゃんが行ってしまったら、身近には親しい者がますますいなくなってしまうのよ。邢のお嬢さんが来てくれて、兄に代わって孝行を尽くしてくれれば、兄が出所したって感激するに決まっているじゃない。何をぐずぐずしているのよ」と繰り返し訴えかけ、ついに薛蝌を説得しました。
薛未亡人は王夫人に頼み、邢夫人と相談しに行ってもらいました。邢夫人は心中喜び、こう思うのでした。薛家は傾いたとはいえ、邢家よりはずっとマシだ。それに、薛蝌の人となりも申し分ない。ここは、実家に行って邢忠に相談しようと。邢家では勿論承知しました。
この婚儀は、そもそも賈母が持ち出したものでした。今や賈母は亡く、王夫人が取り仕切ることになりました。邢家に異論がないことから、人に命じて二人の生辰八字(生まれた年・月・日・時を表す干支を組み合わせた八字)を照合させました。宝釵は実家に戻って薛未亡人の料理の準備を手伝いました。薛家では黄道吉日を選び、結納後の三、四日間、楽器を打ち鳴らし、邢岫烟を娶りました。
今は以前とは比べものにならず、婚儀は万事倹約を旨とし、親戚友人のうち賈、王家以外の者には別に一卓のみ与えられました。王子騰の家の者は名籍がなくなり、親戚と顔を合わせても嘆ずるしかありませんでしたが、喜事のことゆえ、涙するわけにもいきませんでした。
そして岫烟は、里帰りから戻ると、頭の鳳釵を外し、赤い花模様を散らしたテンの毛皮を裏につけた上衣と萌葱色の木綿地に金や五彩の刺繍をほどこした長上衣を脱いで、普段着の淡紅色の綸子の上衣の上に着古した上着を羽織り、家事に取りかかるのでした。薛未亡人には孝行を尽くし、宝琴とは仲良く、金桂が嫁に来た時と比べて天と地ほどの差がありました。
薛蝌は元々、岫烟の立ち居振る舞いが端正でしとやかな様を尊敬していましたが、嫁入れしてからは、ますます謙虚で礼儀正しく、貧困に耐え、自分に対する心遣いも非常に行き届いており、心から敬愛するようになりました。一方、不幸にして家運は敗れ、岫烟に嫁いできてもらいながら、いまだ良い思いをさせてあげられないことを思うと嘆息止みません。そこで、哀れみながら岫烟の手を取って言いました。「私どもの家は実のところ、以前とは比べられない。あんたは悪い時に来てしまったね」。 岫烟は笑って、「辛くなんてありません。このところの日々は私の家よりどれだけ良いか分かりませんわ! もっと辛くたって私は平気です。情愛さえあれば辛さなんて甘く感じますわ」。 薛蝌は笑って、「私たち二人の情愛は良好ってことかい?」 岫烟は顔を赤くし、薛蝌を見てうつむき、笑って、「あなたは良くないって仰るの?」 薛蝌は岫烟の耳元で囁きます。「最高だよ。あんたより良い人なんかいないさ。あんたを得ることが出来たのは、和氏の璧(かしのへき)を手に入れるよりずっと嬉しいよ」。
【補注】和氏の璧 春秋時代、楚の国の卞和(べんか)という者が山中で宝玉の原石を見つけ、厲(れい)王に献上したが、ただの石だと言われ、罰として左足を切られた。次の武王にも献上したが、同様にただの石だと言われ、罰として右足を切られた。次の文王がその原石を磨かせたところ、正真正銘の宝玉であったという故事から、世に二つとない極めて珍しい宝物のこと。 |
岫烟は恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらも、心は幸せに満ち、ハンカチで顔を覆いながら笑って言いました。「でも、私なんてあなたの家の兄嫁様とは比べものになりませんわ。なんでも兄嫁様は花のように玉のように育ち、天上の嫦娥(じょうが)にも勝り、文墨にも精通し、詩詞を良くなされるとか。こちらに参ったら兄嫁様に教えを請おうと思っていましたのに、残念なことに出て行かれてしまわれました。何と運の悪いことでしょう。義姉妹同士でふざけあい、針仕事をし、詩を詠み賦を作って、義母様に孝行を尽くし、家事を見たいと思っていましたのに」。 薛蝌は「あの人のことは二度と持ち出さないでくれ! あの人があんたの足元にでも及んでいたら、私たちの家だってこんなことにはならなかったんだ! あの人は兄上と絶交し、荷物もみな家に運び、もう戻ってくることはない。おかげで私たちの家はやっと静かになったところなんだ」。 岫烟は事情を知らないので、逆に金桂のために嘆息してやまないのでした。
夫婦二人は仲睦まじい日々を過ごし、薛未亡人は心から喜んでいました。しかし、家運は衰退し、薛蟠の件ではまた多くの銀子を使い、商売は全く振るわず、外地の店もまた二つ倒産しました。岫烟は、家中の暇な者を辞めさせ、自ら切り盛りさせてくれるよう薛蝌に提案します。薛蝌が承知するはずもなく、「妹妹の婚儀が済んでからの話としようよ! それにあんたがわざわざやることはないよ」。
岫烟は宝釵一家がその日の暮らしにも困っていることを知りました。その日、宝釵がやって来たので、二百両の銀子を取り出してこっそり渡し、「姉上の家のことは私も存じています。大奥様は御病気で、宝玉さんも養生していらっしゃると。この銀子はもともと生活費としていただいた物ですので、姉上には持って帰って使ってください!」 宝釵は「申し訳ないけど、あんたたちのところだって決して上手くいっていないのよ。また二つの店が潰れたそうだし、来年には琴ちゃんの結婚があるんだし、将来のために取っておきなさい!」 岫烟はどうしても承知せず、「私たちのところではまだいくらか収益があるんですから、姉上のところとは比べものになりません。姉上がお収めください!」 宝釵はついにこれを受取り、心中では岫烟への感謝に堪えませんでした。薛未亡人は岫烟が来てから心が楽になり、宝琴もいつも岫烟と一緒に針仕事や碁をし、仲睦まじく暮らしたのでした。
さて宝釵は、岫烟のところから戻ると、すぐに王夫人を見舞いに行きました。王夫人は、家産が没収されて家廟に移ってからは、日々の心労が重なって何度も病気になりました。今は春になったとはいえ、寒さがぶり返す時分で、油断するとまたゼーゼーと喘ぎ、鳩尾(みぞおち)が痛み、頭がふらつき目がくらみます。宝釵はこれを慰め、「奥方様、どうか御自愛ください。今、お医者様を呼びますので。奥様が大病になられたら切り盛りする人がいなくなってしまいますわ」。 王夫人はかぶりを振って、「医者を呼んでどうするんだい? ちょっと冷たい風に当たって持病がぶり返しただけだよ。今我が家では食べる米さえ大変なのに、医者に診てもらって薬を飲むお金なんかないだろうに」。 宝釵は「病気にかかれば治療しなければなりませんし、薬を服用しないわけにはいきませんわ」と言って、焙茗に医者を呼びに行かせました。
焙茗が太医院へ着いて王太医に頼むと、王太医は昔日の交情を思って自ら診察に来ました。脈を診て処方箋を書き、「大奥様のこの病気はだいぶ長く患っておられますな。夜には必ず悪夢を見、昼には頭がふらつき目がくらむことでしょう。これは全て心労の蓄積、心血の欠損、心気虚弱によるものです。上等の人参を手に入れていただき、薬に混ぜ、煮詰めて飲めば効き目がございましょう」。
そこへ賈璉が入室し、王太医に付き従って退出しようとすると、趙氏が探しに来て、「近頃、私も頭がふらつき目がかすむんです。私にも処方箋を書いてください」。 王太医は再び腰を下ろし、脈を診て、「脈状を拝見したところ、病気ではなく、少し肝気が旺盛になっているだけです。薬は飲まなくても大丈夫でしょう」。 趙氏は、「本当に具合が悪いのに、どうして薬を飲めないんですか? 王先生、どうか人参を処方してください」。 王太医はかぶりを振って笑い、「ご勘弁を。いい加減な処方はできません」と言って処方箋を書いて立ち去りました。賈璉が薬を取りに行かせたことはさておきます。
さて、趙氏は、人参は滋養にいいと聞いており、自分が病気になったのは衣食に困窮して体が虚弱になったためだと思っていました。王夫人が薬用人参を処方されたので、ご相伴に預かろうとしましたが、冷たく断わられたので心中面白くなく、ぶつぶつ言っていました。そして、王太医が、王夫人の薬には人参を入れれば効き目があると言っていたことを思い出し、薬を煎じるところを見に行こうと、煎薬室へと足を運びました。
見れば、一人の婆やが薬を煎じる土瓶の火を起こしていました。趙氏が来たのを見ると笑って、「奥様の薬はまだでございます。この炭が湿気っていて火が着きません。奥方様の薬もここに置いてあるんですよ。私、ちょうど柳の奥さんに炭を一籠もらいに行こうと思っていたところです」。 趙氏はこれを聞くと、「そういうことなら行っておいで! 私が代わりに火を着けておくから、柳の家内のところでいい炭をもらっておいで!」 婆やは「では奥様、ちょっとの間代わって見ていてください。奥方様が薬を待っているんですよ! この炭はようやく着きましたし、私はすぐに戻ってきますから」。 趙氏は「早く行っておいで! 奥方様の薬は私が煎じておくから。戻ったら私の薬を煎じて、さっさと飲ませておくれ」。 婆やは「煎じ終えたら、奥様のところへ直接お届けします」と言って嬉しそうに出て行きました。
趙氏は人がいないのを見て、王夫人の薬を開けると、数本の人参が中に混じっていたので、急いで一本つまみ出し、自分の薬の中に入れました。王夫人の薬を土瓶に入れ、水を入れて煎じ始めました。
婆やはしばらくして半籠分の炭を持って戻ってきました。趙氏が既に王夫人の薬を煎じているのを見て、心中嬉しくなりました。手を洗いながら趙氏に向かって言いました。「奥様、どうぞお休み下さい! ここのところ家運が悪いようで、奥様御自身に煎じさせてしまいました。以前でしたら、薬を煎じる者も山ほどおり、炭も運ぶ者もいましたので、自分で取ってくることはなかったんです。今言っても仕様がないことですけど」。 趙氏もフーッと息を吐きます。夜が更けたのを見て部屋に戻ったことは述べません。
およそ二、三十分後、玉釧児が王夫人の薬を取りに来ました。李紈、宝釵たちは薬を冷まし、王夫人を起こして飲ませました。王夫人はまたしばらく咳をしてから、李紈と宝釵に部屋に戻って休むように言いました。李紈と宝釵は王夫人が薬を飲んで少し落ち着いたのを見て、賈政もすぐに戻るものと思い、玉釧児にあれこれ言いつけ、それぞれ部屋に戻って休みました。
さて、婆やは、薬を煎じ終えると、果たして自分で趙氏のところへ持って行きました。趙氏はこれを引き留めて雑談をしました。二人は他人のことをあれこれとあげつらい、意気投合したのでした。すでに二更となり、賈政が王夫人の部屋にいると聞き、婆やは慌てて辞しましたが、煎薬室に行かずに部屋に戻って休みました。
賈政が戻ると、王夫人はもう眠っていました。玉釧児に王夫人の病状を尋ねてから休ませ、正に眠ろうとすると、王夫人が目を覚ましました。物音を聞いて、喘ぎながら尋ねます。「お帰りになられたのですか? 鳳ちゃんのことはまだ目処が付かないんですか?」 賈政はゆっくりと息を吐いて、「璉児が出てきたので、今は彼女のことでかかり切りになっている。私も数日経ったらまた親王様にお願いに上がろう。ただ、璉児は他人事のようで、煕鳳のこともあまり聞いてこない。奴は毎日家でいったい何をしているんだ?」 そして、王夫人が咳をするので、氷砂糖で煮た雪梨のスープを運んできて王夫人を起こして飲ませてから、夫婦二人はやっと眠りにつきました。
ところが真夜中になり、突然大声で喚き立てる声が上がりました。賈政が驚いて起き上がり、窓から外を見ると、火が勢いよく燃えており、失火したことを知って慌てて門を開けに行きますが、しばらく閂が開きません。やっとのことで押し開いて出て見ると、火は既に空の一角にまで燃え上がっています。煎薬室はすっかり焼き尽くされ、平児の住む部屋に延焼していました。
賈璉、林之孝らは闇雲に水をかけますが、今は家中に男手が少なく、火は勢いを増します。加えて今晩は風が強く、どうして太刀打ちできましょう。たちまち火は邢夫人の住む部屋に燃え広がり、西の宝玉の住む部屋にも火が回りました。各部屋の侍女、婆や、小者たちはみな大騒ぎしながら衣装箱などを運び出し、混乱の極みに達します。
宝玉は急いで部屋に入り、王夫人を背負います。どこからそんな力が出るのか、王夫人を背に廟外の離れた大樹の下まで一気に飛び出すと、そっと王夫人を地面に置き、「母上は休んでいてください。私は行ってまいります!」と言って、布団を引っ張り出して王夫人の体に掛け、またバタバタと出ていきました。
火の勢いはあっという間に強くなり、手のつけようがなくなりました。賈璉は賈政に向かって、「大殿様は早くみんなに出るようにお命じください! 持ち出せないものは仕方ありません。人こそが大事です。ぐずぐずしていると間に合わなくなります」。 賈政は急ぎ家人に申し付けます。「早く出なさい! 家財に構うことはない」。
趙氏は髪を振り乱して泣き叫び、部屋に駆け入ろうとします。賈政はこれを叱りつけて、「死にたいのか! さっさと離れなさい!」 しかし、趙氏は気が狂ったようになって聞く耳を持ちません。これを見た宝玉は飛びかかって趙氏を捕まえ、衣服に火が付くのにも構わず、趙氏を背負って外へ走り出ました。
ただちに賈政と賈璉は家人に声をかけ、門を走り出ました。
一刻も経たずに全ての部屋が崩れ落ちました。王夫人は驚いて、木の下でずっと念仏を唱えていました。
火は明け方になって次第に鎮火しましたが、一夜の間に家廟は灰燼に帰しました。賈政は地団駄を踏んで嘆息し、「終わりだ、終わりだ、我が賈家に幸なく、最早ここまでだ! 天よ、天よ、何故私一人を罰しないのです? 何故我ら賈氏の子孫にまでこのような仕打ちをされるのです?」と言って、涙を雨のように流します。家人たちも互いに泣き濡れ、悲しみに堪えません。
この時、王夫人は昏倒していました。宝玉、李紈らは看護に当たりますが、水を飲ませてやることもできません。賈政はこれを見て心も張り裂けんばかりに焦り、かぶりを振り、涙を流して行ったり来たりするのでした。
賈璉は人を遣って食料を買いに行かせ、みなに分け与えました。一方で賈政に、「大殿様、どうしたらよろしいでしょうか。一家を野ざらしにしておくわけにはいかないでしょう」。 賈政は声を上げて泣き、「賈氏の家運はかくの如し、私にどんな方法があろう。お前はずっと家政を執ってきたのだから、考えを申してみよ!」 賈璉は「事ここに到れば、一家で一ヶ所にいることに拘ってはおれません。私の考えでは、それぞれの部屋で親戚のいる者は身を寄せてもらいましょう。宝玉と宝妹妹はしばらく薛の叔母上の家に住んでいただきます。兄嫁様(李紈)は実家に戻れば、まだ何とかなりましょう。私のところはまた別の手段を考えます。奥方様は御病気ですが、大殿様と奥方様はどうされますか?」
そこへ宝釵、李紈らが揃ってやって来ました。宝釵は急いで言います。「大殿様、奥方様と趙のおばさま、環ちゃんは私たちと一緒に住みましょう。あなた方は芸児を頼れば何とかなるでしょう。鴛鴦はあなた方と私たちのどちらと一緒にいたいのかしら?」と尋ねると、鴛鴦は宝釵と一緒にいることを希望したので、そのように決めました。薛蝌は賈宅が火災に遭ったと聞き、すぐ人を伴って自ら迎えにやってきました。李未亡人のところでも人を寄越しました。一同は賈璉の考えにそってそれぞれ分散しました。
趙氏は薛家に何日か滞在すると、賈政の前で喚き散らします。「息子の嫁の実家に一緒に押しかけてどうされるんですか! 大殿様にはほかに手がないんですか?」 賈政は、宝釵が孝行者で、薛未亡人が寛大だとはいえ、息子の妻の実家で生活するのはあくまで一時的な手段だと思っていました。そこで、火事の後に拾い出した銀銭で宣武門西半里塊市(かいし:漢代に長安城外の槐(えんじゅ)並木で開かれたという私設市場)の横町に五七間の粗末な家を借り、壁を塗り直し、すぐに引っ越しました。王夫人は賈政を心配し、また夫婦の情は断ちがたく、病の身ではありましたが、賈政に付いて行きました。宝玉と宝釵は心配し、毎日看病に行きました。
紅玉らは賈宅が火災に遭ったと知ると、きっと窮地に陥っているだろうと思い、賈芸と共にやってきました。宝玉、李紈らが落ち着き、賈璉たちだけが行き場がないのを見て、長屋に移り住むよう誘いました。
平児はいよいよ八方塞がりの事態と見て、利息を取るために賈芸に預けた三千両の銀子があることを賈璉に告げました。賈璉は賈芸にこれを回収させ、小花枝巻のかつて尤二姐が住んだ部屋を借り、邢夫人、平児、巧姐と一緒に移りました。惜春は邢夫人の身辺に人がいないのを見て付いて行きました。家人は豊児と邢夫人付きの侍女一人のみを残しました。賈璉には三千両の銀子があるので、一家で何とか日々を暮らすことができました。
さらにしばらく時が経ち、家を取り仕切る者がいないので、賈璉は邢夫人に平児を正室にしたい旨を伝えました。邢夫人は今や賈璉に頼って暮らしていますので、否も応もないのですが、ただでさえ鳳姐には恨みつらみがあり、一家に災いを招いた鳳姐にはいずれ報復してやりたいとさえ思っていましたので、賈璉の申し出に異を唱えるはずもありません。すぐに頷いて、「早くそうすべきだったよ、鳳ちゃんはいつ出て来られるのか分からないからね。平児はあのとおり良い子だから、占い師に良い日を選んでもらって取り計らいなさい!」
賈璉は邢夫人が承知してくれたので非常に喜び、賈政にも同意してもらおうと、横町の賈政を訪ねました。
賈政はこれを聞くとひどく驚いて、「煕鳳は獄中にいるのに、平児を正妻にすると言うのか! 煕鳳が戻って来ればそれでいいではないか!」 賈璉は跪いて、「家門の不幸、この災禍は正に彼女が播いた種です。大殿様はどうしてお分かりにならないのです? まして、私は別住まいで、内に一人も頼れる者がおりません。平児を正妻にしてやらないと彼女も力の限り私を支えることができません。それに巧姐には母がいなくて哀れでございます。昨日、母上には既に報告しましたので穏当かと存じます。殿、どうか甥を不憫とお思いください」と言い終えて涙をこぼしました。
賈政は賈璉のこの様子を見て思いました。それぞれが別居している今、彼の母親が既に承諾したのであれば、私が反対してもどうにもなるまい。そこで助け起こして、「既にお前の母上が承諾したのなら、好きにすればよかろう!」 賈璉は叩頭して起き上がり、また、王夫人の見舞いに伺いました。
王夫人はますます痩せ細り、喘息が止まりません。急ぎ進み出て機嫌を伺うと、王夫人の目からはどっと涙がこぼれます。賈璉は平児の正妻の件を伝えるのもまずいと思い、しばらく王夫人を慰めました。王夫人は、「鳳ちゃんはまだ出て来られず、私の病気もこんな具合だし、あの子にはもう会えないんじゃないかしら。でもあの子のことは心配でたまらないの。何とか方法を考えてはくれまいか」。 賈璉は急いで「はい」と答え、慰めながら、「奥方様には心を広くお持ちください! 外は日一日と暖かくなってきました。服薬すればきっと良くなりましょう。日ごろより楽しいことを考えるべきです。病気に負けてはなりません!」 王夫人はかぶりをふって嘆息し、「どこに楽しいことがあろう! この病気だって日一日と悪くなるだけだよ」。 賈璉はまたしばらく慰めてから退室し、占い師を訪ねに行きました。
平児はそもそも鳳姐の側づきの者ですから、こんな日を望んだわけではありませんでした。今、賈璉の一存で自分を正室にしようとしているのを見て、喜びもし、懸念もしていました。そこでこれを辞退して、「奥様が戻ってきた時にどうなさるのです? 天地がひっくり返る騒ぎが起きて、私も尤の奥様のようになりかねませんわ」と言うと、賈璉はこれを慰めて、「安心しな。あの鬼婆が戻ってきたって、大人しくしているんなら構わないし、喚き散らすようなら私だって許しちゃおかない。離縁してやるまでさ! あんたが若奥様なんだから、あいつが何だっていうんだ!」 平児はかぶりを振って嘆じ、「お忘れですか? 私はあの方の元で、心を込めてお仕えしてまいったのです。あなたの妾になったのもあの方の温情でしたが、あの方の地位を奪うとなれば決して許してくださらないでしょう。いずれ八つ裂きにされますわ! 正妻の話はもうなさらないでください」。 賈璉が承知するはずもなく、平児を懐に抱いて言います。「良い子だから、もうそんなことは言わないでおくれ! 二姐のことは今でも悲しくてたまらないさ。あんたはあの子の力になってくれた。亡くなった時にもあれだけの銀子を私にくれた。今のこの三千両の銀子もあんたが出してくれたものだ。あの鬼婆だったらどこに隠したか分かるもんか! 一家が飢死したってあいつは決して出してくることはなかっただろう。あいつに対しては憎しみしかない。今はあんただけ愛し、あんただけを敬っている。あんた以外に正妻が務まるもんか! あんな焼きもち焼きなんか知ったことじゃない。もしこれまでどおりだったら私はあいつと離縁するし、今後あいつの指図は受けないよ」と言って、ついに平児を口説き落としました。
賈璉はその日になると、数名の楽士を頼み、一族の者も友人たちも招かず、邢夫人にのみ立ち会ってもらい、まず天地を拝し、次いで邢夫人を拝しました。また、巧姐に平児に向かって大礼をさせ、花火と爆竹を鳴らし、祝いの酒を二杯飲み、平児を若奥様、若奥様と呼び始めました。豊児らも平児に対して「若奥様」と呼びました。平児は一家の長として一家の生計を精力的に取り仕切るようになり、賈璉は鳳姐のことなどすっかり頭になく、平児と共に暮らしたことは省略します。
しばらく日が経って、王夫人はようやく趙氏からこのことを聞き、心中またかっとなり、平児は変わった、とんでもない奴だと罵り、また、「鳳ちゃんが可哀想だよ!」と言います。賈政は王夫人を慰めて、「お前はよくよく療養しないといけない。悩んで体を壊してはいけないよ。今はそれぞれが別々に暮らしているんだから、人の家のことは我々が関わることではない。とは言え、煕鳳はまだ獄中だし、璉児があの子のことを構わないと言うなら仕方ない、私の顔で何とかしてやらなくてはなるまい。王夫人は泣きながら、「どうかあの子を助けてあげてください! 鳳ちゃんはここ何年も私たち賈家を支えて尽力してくれました。まだ獄中にいるからと言って見捨てておくわけにはいきませんわ!」 賈政は王夫人を慰め、自らは鳳姐の事を図りに出かけるのでした。
王夫人は気を揉み、また鳳姐を心配し、病状は日に日に重くなりました。宝釵と李紈はは毎日見舞いに来ましたが、なにせ家ではやることも多く、午後早くに訪れていました。人を寄越して食料を送って寄こすこともありましたが、趙氏と賈環が盗んで食べてしまい、王夫人にはうすい粥とわずかばかりの漬け物があてがわれ、食事も喉も通りませんでした。趙氏は影ではいつも不平不満を言っていました。「これまで私たち親子を人として見てこなかったくせに、病気になったら私たちに頼りっきりだよ。そんなことなら最初から目を掛けてくれればよかったのに」。 王夫人が呼んだ時に玉釧児がちょっと不在だと、聞こえないふりをして動こうとしませんでした。しかし、彩雲が行って世話をしようとするので、趙氏は「出しゃばった真似をするんじゃないよ!」と叱りつけますが、彩雲は相手にしませんでした。
その日、宝玉は王夫人の見舞いに訪れました。王夫人は宝玉を引き寄せて涙を流し、せきをし、胸を押さえて痛いと言うのでした。宝玉はベッドの上に座って王夫人の手を握り、しばらく慰め、また王夫人の背中を軽く叩きました。王夫人の病気は日増しに重くなって離れるわけにはいかないと思いましたが、そこには余分なスペースがないので、賈環、彩雲、趙氏と一緒に住むことにしました。賈環は不本意でしたが、どうしようもなく、ただ我慢して日を送るのでした。宝釵と李紈も越してきて、二人は玉釧児の小部屋に同居しました。
薛未亡人はこれを聞くと、いささかの銀子を携え、宝琴と一緒に見舞いに来ました。老姉妹は会うなり手を取って涙を流し合いました。王夫人は話をしようとしますが、胸元を押さえ、ぜいぜいと咳をして何も言い出せないのでした。薛未亡人は急いで王夫人を扶けて横にし、とめどなく涙を流して、「数日会わなかっただけなのに、こんなに病気が進んでしまったのね。お医者様の薬は飲んでいるの? ちょんと養生しないとダメよ」。 玉釧児は傍らから答えます。「大殿様が自らお願いにあがり、今も太医院の王太医の薬を服用しています。しばらくは良かったのですが、この五、六日は心の臓の痛みを訴えられて急に悪くなりました」。 薛未亡人は、「王太医の医術は京師でも名を知られているし、あの方の薬を飲めば日一日と良くなるわ。この病気は三日良ければ二日悪いというものでしょう。ここを乗り切ってよく養生すればきっと良くなるでしょうから、安心なさい」。王夫人は目に涙を浮かべて頷きます。
宝琴も王夫人の見舞いに来ました。李紈は宝琴の手を取って、「琴妹妹は間もなくお嫁入りね。日にちは決まったの?」 薛未亡人が答えて、「決まったわ、五月十二日よ」。 李紈は「琴妹妹におめでとうを言わないとね。梅家の若様は教養があり、礼儀正しい御仁で、器量も性分も申し分なく、良家だと聞いているわよ」。 宝釵は「お姉(兄嫁)様は御存知ないでしょうが、梅家のお父(義父)様は退官されたのではなかったですか? あちらの家は元々裕福ではありませんから、琴児も苦労するでしょうね。そういえば李大妹妹も結婚が決まったと聞きましたが、婚約したのは馮紫英さんでしたっけ? あちらも名家ですね。でも李紫英さんも幸せな方ですね」。 李紈は「馮家から話があったので承諾したの。間もなく一人一人と離れて行ってしまうのね。近頃、雲ちゃんの旦那様が亡くなったそうね。どんな亡くなり方をしたのかは知らないけど、あの年で未亡人だなんて。先日、あの子のお父(義父)様は地方に転任になり、一家は皆ついていったんだけど、あの子がどうなったのか知らないかい?」 宝釵は「彼女が行ってしまってからは知らせがないんです。あの子も運が悪く、立派な旦那様に嫁いだのに病気で亡くなってしまいました。お母(義母)様に従って遠くに行き、一家でどうしているんでしょうね」。 一同はしばらく嘆じました。さて、王夫人の病はどうなるでしょうか、次回をお聞きください。