発端は、毛沢東が中共中央政治局員等の幹部あてに送った「紅楼夢研究問題に関する書簡」であり、この中で、(1) 兪平伯は「胡適派資産階級の唯心論の影響を受けた」「ブルジョア知識分子」であり、その「青年を害する誤った思想」を批判すべきであること、(2) 大人物が兪平伯の唯心論を容認し、小人物の生気あふれる批判文を阻害し、「ブルジョア作家と観念論の面で統一戦線を結び」、「資産階級の捕虜となった」こと、について言及しました。
具体的には、兪平伯氏の論文「紅楼夢簡論」に対し、李希凡(りきはん)と藍翎(はんれい)という二人の青年が「『紅楼夢簡論』その他について」と題する論文を執筆し、この中で、マルクス主義リアリズム論の観点から、「紅楼夢」は封建社会の崩壊過程を描いたリアリズム文学であり、作中人物は封建支配者に反抗した典型として描かれ、醜い現実に対して批判的、否定的傾向をもつものであると主張し、兪平伯氏の紅楼夢論(自叙伝説・怨めども怒らずの風格説・色即是空観念論説・脱胎説)は唯心論であり、ブルジョア的であると批判しました。
しかし、二人に兪平伯批判をしてよいかどうかとの伺いを立てられた中央の有力紙「文芸報」編集部はこれを放置します。
その後、彼らの母校・山東大学の雑誌「文史哲」に掲載され、続いて、ある人(実は毛沢東の意を受けた江青)が「人民日報」への転載を要求しますが、((1) 小人物の文章であること、(2) 党機関誌は自由討論の場でない、という理由で)反対され、その後妥協が成立してようやく「文芸報」に転載されたという経緯があったそうです。
つまり毛沢東は、資産階級の学術思想(唯心論)と大人物(文芸界)の権威主義的体質への不満を述べたわけです。
毛沢東の目的は、古典文学研究という領域を利用して(当時最も影響が強かった資産階級の)唯心主義に抗争を挑み、マルクス主義を普及させるとともに、思想領域における権威と地位を確立することでした。
国家の最高指導者のこの書簡に対し、中央では文化界を総動員してのブルジョア思想に対する批判運動に発展し、やがて全国規模の批判闘争が発動されました。
これにより、紅学研究の第一人者とされてきた兪平伯氏の権威は根底からくつがえされ(ただし、毛沢東の書簡が発表されるのは10年以上も後の文革中であったため、兪平伯氏自身は自分がなぜ批判されるのか分からなかったと言われます)、思想闘争は胡適批判にまで発展していきます。つまり、紅楼夢研究批判とは思想改造運動の一環であり、紅楼夢はたまたま引き合いに出された観があります。
紅楼夢研究批判は学術領域で行われた最初の批判であり、政治的圧力による思想統制は、のちの文化大革命への道を作ったわけですが、紅楼夢に関しては、一般大衆に広く膾炙され、また、のちの紅学研究が活性化されて多数の優れた業績を生む機運が作られたという一面もあるとされます。
1952年09月 |
兪平伯の「紅楼夢研究」が出版される |
1954年03月 |
兪平伯が「新建設」に論文「紅楼夢簡論」を発表 |
1954年 |
李希凡と藍翎が「『紅楼夢簡論』その他について」を執筆 |
1954年10月16日 |
中共中央政治局員等の幹部に毛沢東の「紅楼夢研究問題に関する手紙」が届く(ただし手紙の全文が公開されたのは文革中の1967年05月27日) |
1954年10月18日 |
作家協会の共産党グループが伝達・学習会を開催 |
1954年10月23日 |
人民日報が鐘洛の「紅楼夢研究における誤った観点に対する批判を重視すべきである」を掲載 |
1954年10月24日 |
作家協会古典文芸部が紅楼夢研究座談会を開催 |
1954年10月28日 |
人民日報が袁水拍の「「文芸報」編者に質す」を掲載 |
1954年10月31日 ~12月08日 |
文学芸術学連合会主席団と作家協会主席団の合同会議。連合で胡適批判の討論会を開くことを決定 |
1954年11月08日 |
社会科学院院長の茅盾が「文化学術界はブルジョア思想に対する闘争を展開すべきである」と題する談話を発表 |
1954年12月08日 |
周揚が「われわれは戦わなければならない」を報告、兪平伯の文学的見解は「ブルジョア的であるだけでなく封建的でもあり」「読者を革命からの逃避に導こうとする政治目的をもっている」と批判 |
1955年01月 |
中共が「幹部と知識分子の中で、唯物論思想を宣伝し、ブルジョア観念論を批判する講演活動を組織することに関する通知」を発表 |
1955年03月 |
中共が「全国人民の中によりいっそう唯物論思想を宣伝し、ブルジョア観念論思想を批判する指示」を発表 |
1963年 |
曹雪芹死去200周年記念行事が行われ、兪平伯が論文「十二釵の描写について」を発表 |
1966年 |
文化大革命が始まる |
1969年11月 |
兪平伯が河南の幹部学校に送られる |
1971年01月 |
「周恩来総理の特別の配慮」により兪平伯、何其芳、呉世昌らが北京に戻る |
1986年 |
兪平伯の学術活動65周年を祝う会の席上で、社会科学院院長の胡縄が「1954年の彼に対する政治的包囲攻撃は正しくなかった」と述べ、紅楼夢研究批判の評価が公式に改められた |