曹雪芹の家系と生涯

もどる

曹家の歴史
曹錫遠
│
曹振彦
├───────────┐
曹           曹
璽           爾
│           正
├───┐       │
曹   曹       曹
寅   宣       宜
│  (荃)      │
├─┐ ├─┬─┬─┐ │
│ │ 曹 曹 曹 曹 曹
│ │ 順 桑 驥 頫 頎
曹 曹   額   │
顒 頫←──────┘
│ │  (養子)
曹 曹
霑 霑
? ?

 (1)曹家の祖先

曹家の原籍については、河北省豊潤(ほうじゅん)県(李玄伯・周汝昌氏らの説)と遼東郡遼陽県(馮其庸氏らの説)の二説があります。

豊潤説では、曹家の始祖は北宋建国時の元勲・曹彬(そうひん・931~999)とされます。曹彬は真定郡霊寿県(現在の河北省石家庄市)の人で、子孫が明の永楽年間以降に遼東に移り住んだとされます。

遼陽説では、明建国時の元勲・曹良臣の第三子・曹俊が遼陽に移り、その第四子・曹智が曹家の始祖であるとされます。ただし、曹俊の子孫が瀋陽の将軍職を世襲していたことを示す資料(墓誌)が近年見つかり、曹俊は瀋陽に留まり、曹家の原籍は瀋陽であるとの説(瀋陽説)も出されています。


 (2)曹錫遠・曹振彦


→曹振彦(遼陽曹雪芹記念館)

近祖である曹錫遠(そうしゃくえん・曹世選とも)は、瀋陽で明朝の地方官を務めていましたが、明末にヌルハチが侵攻した際に敗れて捕虜となり、帰服して満州旗籍に入り、正白旗(せいはくき)の包衣(ボーイ、満州語で家奴の意味)となりました。

曹家の所属した正白旗は睿親王ドルゴンに属していましたが、ドルゴンは病没後に大逆罪によりその家産が没収されたため、正白旗も皇帝直属となり、近衛軍である上三旗(正黄旗・鑲黄旗・正白旗)の一つに加えられました。これに伴い、曹家の身分も王家の包衣から内務府包衣(皇室の世襲侍従)へと格上げされました(内務府とは皇帝私宅の管理官庁のことで、上三旗所属の包衣たちで構成されていました)。

曹錫遠の子の曹振彦(そうしんげん・?~1675?)は、山西省平陽府吉州の知州、大同府の知府を経て、両浙の塩法道に任じられた人物です。


 (3)曹璽


→曹璽(南京江寧職造博物館)

曹振彦の長子の曹璽(そうじ・1619~1684)は、妻の孫氏が康煕帝の乳母であり、また、長子の曹寅(そういん)は帝の勉強相手(伴読)を務めたことがありました。このため、曹家は康煕帝の即位後に寵愛を受け、曹璽は康煕2年に新設された「江寧織造(こうねいしょくぞう)」に任命され、一家を伴って南京に移りました。

「江寧織造」とは、宮中御用達の衣料品調達にあたる内務府の直属機関ですが、実は康煕帝の耳目として働き、地方官を監視し、反清感情の根強い江南の漢族文士と親交を深めて中央政府とのパイプ役を要請される重職でした。曹璽は21年余にわたってこの重責を全うし、84年に病没しました。


 (4)曹寅・曹顒・曹頫


→曹寅(南京江寧織造博物館)

曹璽の死後は、長子の曹寅(1658~1712)が33歳で蘇州織造になり、さらに父と同じ江寧織造に任じられました。
曹楝亭(そうれんてい)」の名で知られる曹寅は、勅命を受けて「全唐詩」・「佩文韻府(はいぶんいんぷ)」を刊刻し、「棟亭詩詞鈔(しししょう)」や「棟亭書目」を編集出版するなど、文化芸術事業にも熱心な人物でした。

康煕帝の信任も非常に篤く、曹寅の二人の子女は共に王妃となり、また、在任中の6次の南巡(江南行幸)のうち、4回は曹寅の江寧織造府を南京における行宮としたほどでした。

曹寅が病死(重病の報を聞いた康煕帝は薬を賜っています)すると、康煕帝はすぐに曹寅の子・曹顒(そうぎょう・1689~1715)に江寧織造を継がせますが、曹顒も3年後に病を発して亡くなり、曹寅の血筋が絶えることを憐れんだ康煕帝は、李煦に命じて曹荃(そうせん・1662~1705頃)の第4子・曹頫(そうふ・1702頃~1775頃)を曹寅家の養子とし、江寧織造を継任させました。

曹雪芹はこのころ誕生していますが、これらの混乱のため、曹雪芹の父が曹顒なのか曹頫なのかについては今尚結論が出ていません。

しかし、康煕帝が崩御して雍正帝が即位すると、曹家を取り巻く情勢は一変します。雍正帝は謀略の限りを尽くして皇位を得たために、政敵(他の皇兄弟である胤禩(いんし)・胤禟(いんとう)・胤禵(いんてい))を非常に警戒しました。


→李煦(南京江寧織造博物館)

まず、雍正5年(1727)に曹寅の義兄に当たる蘇州織造の李煦(りく)が、胤禩と通じた罪で逮捕され、黒竜江省に流罪となりました。

李煦(1655~1729)

八旗文人として名高い李士楨(りしてい)の長子で、曹寅の妻の兄。李家も曹家と同じく正白旗に属し、李煦は寧波知府や暢春苑総管等を経て、康煕32年(1692)~61年(1722)まで30年間に渡って蘇州織造をつとめ、その間に八度、曹寅と交代で両准巡塩監察御史を兼任しました。しかし、雍正帝が即位すると公金横領の罪で免職となり、雍正5年には胤禩と通じた罪で逮捕・家産没収となり、死を免じられて黒竜江省に流罪となり、2年後にその地で病没しました。


→曹頫(南京江寧織造博物館)

続いて曹頫が駅舎騒擾(上京時に駅舎から必要以上の銀子を提供させた罪)と公金欠損の罪で逮捕(実は曹家が胤禟と通じていたことが発覚していた)され、家産没収のうえ一族の北京移住を命じられました。

この時、曹頫は多大な賠償を命ぜられますが、雍正帝は曹家の家産を全て新しい江寧織造の隋赫徳(ずいかくとく)に与えたため、曹頫の賠償返済には充当できませんでした。乾隆帝が即位すると、曹頫は恩詔によって免罪となり、曹宜の父・爾正と祖父・振彦が資政大夫と追封されるなど一時的な小康を得たようです。

 その後の曹家については歴史の中に埋もれ、ほとんど分かっていません。


曹家関連年表

万暦44年(明)/天命元年(後金)(1616年)
ヌルハチがハーンの地位に就き、後金を建国
万暦47年(明)/天命3年(後金)(1619年)
曹雪芹の曾祖父・曹璽が生まれる
天啓元年(明)/天命6年(後金)(1621年)
3月、ヌルハチが遼陽・瀋陽を陥落させる
瀋陽の地方官であった曹錫遠が捕虜となり、ドルゴンの正白旗に配属される(時期については諸説あり)
天啓5年(明)/天命10年(後金)(1625年)
3月、ヌルハチが瀋陽に遷都
天啓6年(明)/天命11年(後金)(1626年)
8月、ヌルハチが死去し、第8子ホンタイジが即位する
崇禎5年(明)/天聡6年(後金)(1632年)
曹璽の妻・孫氏(曹雪芹の祖母)が生まれる
崇禎9年(明)/崇徳元年(清)(1636年)
後金が国号を清とする
崇禎16年(明)/崇徳8年(清)(1643年)
ホンタイジが病死し、順治帝が即位する
崇禎17年(明)/順治元年(清)(1644年)
李自成が国号を順とし、明を滅ぼす。清が順を破り入京する
曹家はドルゴンと共に入京し、功臣として城東南角貢院付近に、のちに西苑一帯に住む
順治7年(1650年)
12月、ドルゴンが死去し、曹家の所属する正白旗は皇帝直属の上三旗になる
曹振彦が山西省平陽府吉州の知州に任じられる
順治9年(1652年)
曹振彦が大同府の知府(正五品)に任じられる
順治11年(1654年)
3月、順治帝の三子・玄燁(のちの康煕帝)誕生、曹璽の妻・孫氏が乳母になる
曹寅の義兄(妻の兄)・李煦が生まれる
順治13年(1655年)
曹振彦が両浙都転運使司塩法道に任じられる(従三品)
順治15年(1658年)
曹振彦が死去する。9月、曹璽の長子・曹寅が生まれる
順治17年(1660年)
2月、曹璽の次子・曹宣(のちに曹荃と改名)が生まれる
順治18年(1661年)
1月、順治帝崩御し、康煕帝が即位する
康煕2年(1663年)
2月、曹璽が江寧織造に任じられ、曹家は江南に移る
康煕6年(1667年)
曹寅が北京に戻って入宮し、康煕帝の伴読を務める
康煕11年(1672年)
曹寅、挙人になる
康熙23年(1684年)
6月、曹璽が死去し、曹寅は喪に服すため江南に戻る
11月、康煕帝最初の南巡で曹家を慰問し、李煦を寧波知府に任じる
康煕24年(1685年)
曹寅が内務府で掌慎刑司侍郎に昇任し、5月に北京へ帰る
康煕25年(1686年)
曹寅、内務府郎中に任じられる
康煕27年(1688年)
李煦が辞職して北京に戻り、暢春苑総管に任じられる
康煕29年(1690年)
4月、曹寅が蘇州織造に任じられる
康煕30年(1691年)
曹宣が侍衛に任じられ、曹荃と改名
康煕31年(1692年)
11月、曹寅が江寧織造に任じられ、蘇州織造を兼任する
康煕32年(1694年)
李煦が蘇州織造に任じられ、曹寅は江寧に居を移す
康煕33年(1695年)
曹寅の子・曹顒(小名は連生、字は孚若)がこの頃生まれる
康熙38年(1699年)
康熙帝の3度目の南巡、4月に江寧織造府を訪れる(これより曹家は4度接駕を迎える
康煕41年(1702年)
曹宣の4子、曹頫(字は昂友)がこの頃生まれる
康煕42年(1703年)
康煕帝の4度目の南巡、3月に江寧を訪れ、曹寅・李煦を巡塩御史に任じ、両准塩政を交代で兼任させる
康煕44年(1705年)
康煕帝の5度目の南巡、3月に江寧を訪れる
曹寅、揚州天寧寺で「全唐詩」の刊行を命じられ、翌年10月までに900巻を発刊
曹寅・李煦が通政使司に任じられる
康煕45年(1706年)
2月、曹雪芹の祖母・孫氏が死去。9月、曹寅「楝亭五種」を重刊
康煕46年(1707年)
康煕帝の6度目の南巡、3月に江寧を訪れる
康煕51年(1712年)
7月、曹寅が病死。重病の報を聞いて康煕帝がマラリアの薬を賜る
曹寅の欠損金(借金)50万両余りは李煦が引き継ぐ
曹顒が江寧織造を継任する
「佩文韻府」が3月から翌年9月までに刊行、「楝亭全集」が再刊
康煕54年(1715年)
曹顒が病死し、特旨を受けて曹荃の子・曹頫を曹寅家の養子とする
一説には曹雪芹がこの年に生まれる
康煕55年(1716年)
曹頫が江寧織造を継任する
2月、李煦が曹寅の借金返済について免除を泣訴する
秋、李煦が巡塩御史に復任する
康煕61年(1722年)
康煕帝が崩御し、雍正帝が即位する
雍正2年(1724年)
一説には曹雪芹がこの年に生まれる
雍正5年(1727年)
3月、李煦が逮捕され、死を免じられて黒竜江省に流罪となる。2年後に病死
12月、曹頫が江寧織造を罷免となり、曹家が家産没収される
雍正6年(1728年)
2月、隋赫徳が新しい織造となる
秋、曹頫が家族とともに北京に移り、曹雪芹もこれに従う
参照:《紅楼夢》辞典(山東文化出版社)