曹雪芹の家系と生涯

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曹雪芹について

→北京曹雪芹記念館の曹雪芹像

紅楼夢の作者とされる曹雪芹(そうせつきん)は、名を霑(てん)、字は夢阮、芹渓居士、また芹圃とも号しました。祖父は康熙帝の時代に江寧織造を務めた曹寅であり、康煕帝の寵愛を受けて江南に勢力を張りましたが、雍正帝が即位すると政治抗争にまきこまれて一夜にして没落しました。曹雪芹は一家とともに北京に移り、栄耀風雅な貴公子暮らしから耐乏生活へと転落し、晩年には北京西郊にて紅楼夢執筆に傾倒しましたが、未完のまま病逝しました。

その性格は放達(気ままで鷹揚)で、こよなく酒を愛し、その風采については、裕瑞(ゆうずい)の「棗窓閒筆(そうそうかんぴつ)」によれば「太り肉で額は広く色黒であった」とされます。新奇な詩風を好み、唐の鬼才・李賀(りが)を彷彿とされるものがあり、また画にも巧みで、山石とくに怪石の絵を好んで描いたとされます。


曹雪芹の生涯
(1)曹雪芹の友人

曹雪芹に関する資料は非常に少なく、その生涯については、脂硯斎の批語、彼の友人たちの残した詩文、民間伝承などから推定されています。曹雪芹の数少ない友人には以下のような人々がいました。

愛新覚羅敦敏(とんびん)・敦誠(とんせい)
ヌルハチの第12子・英親王アジゲの5代後裔(アジゲは順治帝との皇位争奪に敗れて死を賜り、一家は零落していました)。一説には右翼宗学(皇族の子弟を教育する学校)で曹雪芹と相知ったとされ、その交際は没年まで続きました。

兄の敦敏(1729~1796年?)、字は子明。「懋斎詩鈔(ぼうさいししょう)」に曹雪芹に関連する詩が6首あります。
弟の敦誠(1734~1791年)、字は敬亭、号は松堂。「鷦鷯庵筆塵(しょうりょうあんひつじん)」に曹雪芹に関連する詩が7首あります。

張宜泉(ちょうぎせん)
曹雪芹が西山に移った後に交友があったとされる人物。内務府鑲黄旗(じょうこうき)人で、彼の代には没落していました。代表作は「春柳堂詩稿(しゅんりゅうどうしこう)」。曹雪芹より十数歳年上といわれますが、欧陽健氏は、張宜泉は曹雪芹より後代(嘉慶年間)の人で、「春柳堂詩集」は偽書だという説を唱えています。


(2)生年について

曹雪芹の父親が、曹顒なのか曹頫なのかは未だ分からず、曹顒の妾腹の子(馬氏が生んだ天祐という遺児が曹雪芹である)とする説(王利器氏)と、曹頫の子とする説(魯迅、胡適氏)、曹頫の子で曹顒の養子になったとする説(周汝昌氏)があります。

曹雪芹の生年については次の2説があり、曹家が家産没収となり、北京に移った時(雍正6年)の年齢は、前者では13歳、後者では4歳となります。
ただし、曹雪芹の名の「霑(てん・うるお-う)」には、「恩寵にうるおう」との意味がありますが、康熙51年(1712年)に曹顒が急逝し、曹頫が「康熙帝の恩寵」により江寧織造の職を継いだことを記念してこの字が選ばれたのではないかとの説が現在は有力であり、紅学会では1715年説が広く認められています。

▩乙未(いつび)説(康煕54年=1715年)
「五慶堂重修曹氏宗譜」によれば、曹顒には曹天祐という子がいること、曹頫が康煕54年に康煕帝に「兄嫁の馬氏、現在懐妊して7ヶ月」と奏上していることから、曹天祐=曹雪芹とみなす王利器氏の説です(ただし、馬氏がこの年に生んだ子が曹天祐である根拠も、曹天祐と曹雪芹が同一人物である根拠もありません)。
また、張宜泉が「傷芹渓居士」の詩中で「年未だ五旬ならずして卒す」と記しており、乾隆27年(1763年・壬午説)に49才で亡くなったとすれば、この年と合致します。

▩甲辰(こうしん)説(雍正2年=1724年)
敦誠が「輓曹雪芹」の詩中で「四十年華、杳冥に付す」と記しており、乾隆28年(1764年・癸未説)に39才で亡くなったとすれば、この年の生まれになります。ただし、曹雪芹が紅楼夢作中に描かれた栄耀栄華な生活を十分堪能できただろうかという疑問が残ります。


(3)曹雪芹の生涯

雍正5年に曹家が家産没収となり、翌年の3~6月の間に、曹雪芹は家族と共に北京に移ります(住まいは崇文門蒜市口だったとされます)。曹寅の未亡人・李氏は寛大な措置により、北京で曹家の持ち家に住むことを許されたものとされ、曹雪芹もその中に含まれて北上したものと考えられます。
北京に移ってからの曹雪芹の動向については、殆ど分かっておらず、一説には内務府の堂主事を務めたともいわれますが定かではありません。

雍正帝が崩御して乾隆帝が即位すると、曹頫が免罪となるなど曹家は一時的な小康を得たと思われていますが、乾隆4年に二度目の巨大な禍変を受けて曹家は一敗地にまみれたものとされます。具体的には不明ですが、この年に弘晰(こうせき・康煕帝の廃太子である胤礽(いんじょう)の子)が「徒党を組んで私利私欲を図った」罪で訴えられ、王爵剥奪のうえ「終身拘束」とされた事件があり、曹家もこれに巻き込まれた可能性があるようです。


福彭(南京江寧職造博物館)

そして、乾隆3年に兵部尚書から内務府総管となった傅鼐(ふだい・曹寅の妹婿)が免職のうえ入獄して病死し、乾隆13年には平郡王の福彭(ふくほう・曹寅の娘婿の子)が死去し、有力な親戚はすべて亡くなってしまったようです。

福彭(1708~1749)
皇族で第5代平郡王ナルスの長子。母は曹寅(曹雪芹の祖父)の娘。父の死後に第6代平郡王となりますが41才で亡くなり、後を継いだ長子も夭逝したため、曹家は後ろ盾を失うことになりました。

その後、一説には乾隆14年前後から右翼宗学の教師または下級職員を務め、その時に学生であった敦兄弟と相知ったものとされます(敦誠が乾隆27年に曹雪芹に贈った詩で宗学で一緒だった時を回憶しているそうです)。

乾隆20年前後(呉新雷氏の説では乾隆19年)に宗学での職を辞して、北京西郊の西山に移ったものとされ(乾隆22年に敦誠が曹雪芹に詩を寄せた時には、既に西山に移っていました)、住居は香山の健鋭営(正白旗の駐屯地)付近だったとされます(呉恩裕氏の説)。
民間伝承によれば、曹雪芹は曹寅以来誼みのある両江総督・伊継善(いんけいぜん)に幕客となることを要請され、一年ほど南京を再訪したものとされています(周汝昌、呉新雷氏によれば乾隆24年)。
その後、生活はますます困窮し、敦誠の乾隆26年の詩では、家中粥をすすって飢えを凌ぐほどであったといい、曹雪芹は余技の絵を売って生活費に充て、酒代をも捻出したとされます。


(4)雪芹の著作活動

紅楼夢の執筆を始めた時期について、多くの紅学者は乾隆9年(1744年)前後としています。これは、最古の写本とされる甲戌本の第1回本文に「曹雪芹が悼紅軒にて被閲すること十年」等とあるので、甲戌年(乾隆19年・1754年)の10年前と見なすものです。
紅楼夢の執筆は、作者と評者の共同作業で進められ、曹雪芹が書いた原稿を、脂硯斎らが手写したうえで批注を加えていきました。批注は二閲、三閲、四閲と進められ、五閲の途について間もなく曹雪芹が急逝したものとされます。
第81回以降の原稿についても、初稿またはその一部はできていたものと見られています(諸説あります)が、何らかの理由で全てが散佚し、紅楼夢は80回をもって永遠に途絶しました。


(5)没年について

曹雪芹の没年については、以下の3説があって定論を見ません。
敦誠の詩によれば、曹雪芹は夭折した子(曽次亮氏によれば癸未の夏から秋にかけて流行した天然痘が原因ではないかとされます)を嘆き悲しむあまり、病気を発して亡くなったものとされます。
また、伝承によれば、一人残された曹雪芹の後妻は文字を識らず、机上の紙を剪って紙銭として焼いたが、友人たちが曹雪芹の遺骸を兵営の共同墓地地蔵溝(ちぞうこう)に葬る時に、焼け残った紙を見て、初めてそれが81回以降の草稿だったことを知る、という伝説めいた話があります。

壬午(じんご)説
(乾隆27年の大晦日=1763年02月12日)
甲戌本の脂批「壬午除夕(大晦日)、書未だ成らざるに、芹涙尽きて逝く」との記述を根拠としたものです(愈平伯、王佩璋、陳毓罴、鄧允氏らの説)。また、文化大革命の時期に河北省通県の農村・張家湾で「曹公諱霑墓」と刻まれた墓石が発見され、「壬午」の二字も刻まれていることから、この墓石が本物であれば(真偽の決着はついていません)壬午説の根拠となるとされています。

癸未(きび)説
(乾隆28年の大晦日=1764年02月01日)
脂批の「壬午」は誤記であるとし、敦敏の「懋斎詩鈔」に、癸未の2月末に曹雪芹に一詩を賦して30歳の誕生日の賀宴に招いた、と書かれていることから、癸未の年には曹雪芹は生きていて、この年の大晦日に病没したとする説です(周汝昌、曽次亮、呉恩裕、呉世昌氏らの説)。

甲申(こうしん)説
(乾隆29年の初春=1764年03月20日)
脂批の「壬午除夕」はこの批語を書いた日で「書未だ~」とは連動していないとし、彼に関する挽詩(敦誠、敦敏、張宜泉)は全て甲申の年に作られているので、曹雪芹は甲申の春に死んだとする説です(胡適、梅挺秀氏の説)。

曹雪芹関連年表
康煕54年1715年一説には本年曹雪芹が生まれる
雍正2年1724年一説には本年曹雪芹が生まれる
雍正5年1727年12月に曹家が家産没収を受ける
雍正6年1728年3~6月の間に家族とともに北京に移る
雍正11年1733年福彭(曹寅の女婿)が玉牒館の総裁となる
雍正13年1735年8月に雍正帝が崩御し、9月に乾隆帝が即位する
曹雪芹の高祖曹振彦が資政大夫に追封され、曹頫が内務府員外郎に起用されたという
乾隆2年1737年傅鼐が内務府総管大臣に、平郡王福彭が将軍世襲職を賜る
乾隆3年1738年傅鼐が罪をきせられて入獄し病死。福彭が朝政を預かる
乾隆4年1739年巨大な変故に遭って一敗地にまみれたとされる
乾隆9年1744年敦誠が右翼宗学に入る(雪芹も本年以降に右翼宗学で仕事をしたか)
このころ曹雪芹が紅楼夢の執筆を始めたか
乾隆13年1748年福彭が死去し、長子の慶寧が襲職する
乾隆15年1750年一説にはこのころ曹雪芹が右翼宗学を辞し、北京から西郊香山健鋭営一帯に移ったとされる
乾隆17年1752年石頭記前40回が完成し、脂硯斎がこの年か翌年に最初の評閲を行う
乾隆19年1754年脂硯斎が二度目の評閲(重閲)を行う。甲戌本の成立
乾隆20年1755年伝承によればこの頃に曹雪芹が先妻を失う
乾隆21年1756年脂硯斎が三度目の評閲(三閲)を行う
乾隆24年1759年伊継善の招きに応じて江南を再訪したとされる
乾隆25年1760年脂硯斎が四度目の評閲(四閲)を行う。庚辰本の成立
伝承によればこの頃に曹雪芹が後妻を娶る
乾隆26年1761年敦兄弟が西郊に曹雪芹を訪ねる
乾隆27年1762年4~9月に脂硯斎が五度目の評閲(五閲)を開始(しかしこの後乾隆30年まで中断)
秋に曹雪芹が槐園に敦敏を訪ね、敦誠と酒を飲む
一説にこの年の大晦日に曹雪芹が死去
乾隆28年1763年敦誠が曹雪芹に詩を贈って誕生祝宴に招く
一説にこの年の大晦日に曹雪芹が死去
乾隆29年1764年一説にこの年の初春に曹雪芹が死去
敦誠が「挽曹雪芹」、敦敏が「河干集飲題壁兼吊雪芹」、張宜泉が「傷芹渓居士」を記す
乾隆56年1791年「新鐫全部繍像紅樓夢」初版(程甲本)が出版される
乾隆57年1792年「新鐫全部繍像紅樓夢」改訂版(程乙本)が出版される
参照:《紅楼夢》辞典(山東文化出版社)