→北京曹雪芹記念館の曹雪芹像
紅楼夢の作者とされる曹雪芹(そうせつきん)は、名を霑(てん)、字は夢阮、芹渓居士、また芹圃とも号しました。祖父は康熙帝の時代に江寧織造を務めた曹寅であり、康煕帝の寵愛を受けて江南に勢力を張りましたが、雍正帝が即位すると政治抗争にまきこまれて一夜にして没落しました。曹雪芹は一家とともに北京に移り、栄耀風雅な貴公子暮らしから耐乏生活へと転落し、晩年には北京西郊にて紅楼夢執筆に傾倒しましたが、未完のまま病逝しました。
その性格は放達(気ままで鷹揚)で、こよなく酒を愛し、その風采については、裕瑞(ゆうずい)の「棗窓閒筆(そうそうかんぴつ)」によれば「太り肉で額は広く色黒であった」とされます。新奇な詩風を好み、唐の鬼才・李賀(りが)を彷彿とされるものがあり、また画にも巧みで、山石とくに怪石の絵を好んで描いたとされます。
兄の敦敏(1729~1796年?)、字は子明。「懋斎詩鈔(ぼうさいししょう)」に曹雪芹に関連する詩が6首あります。
弟の敦誠(1734~1791年)、字は敬亭、号は松堂。「鷦鷯庵筆塵(しょうりょうあんひつじん)」に曹雪芹に関連する詩が7首あります。
曹雪芹の生年については次の2説があり、曹家が家産没収となり、北京に移った時(雍正6年)の年齢は、前者では13歳、後者では4歳となります。
ただし、曹雪芹の名の「霑(てん・うるお-う)」には、「恩寵にうるおう」との意味がありますが、康熙51年(1712年)に曹顒が急逝し、曹頫が「康熙帝の恩寵」により江寧織造の職を継いだことを記念してこの字が選ばれたのではないかとの説が現在は有力であり、紅学会では1715年説が広く認められています。
雍正帝が崩御して乾隆帝が即位すると、曹頫が免罪となるなど曹家は一時的な小康を得たと思われていますが、乾隆4年に二度目の巨大な禍変を受けて曹家は一敗地にまみれたものとされます。具体的には不明ですが、この年に弘晰(こうせき・康煕帝の廃太子である胤礽(いんじょう)の子)が「徒党を組んで私利私欲を図った」罪で訴えられ、王爵剥奪のうえ「終身拘束」とされた事件があり、曹家もこれに巻き込まれた可能性があるようです。
福彭(南京江寧職造博物館)
そして、乾隆3年に兵部尚書から内務府総管となった傅鼐(ふだい・曹寅の妹婿)が免職のうえ入獄して病死し、乾隆13年には平郡王の福彭(ふくほう・曹寅の娘婿の子)が死去し、有力な親戚はすべて亡くなってしまったようです。
福彭(1708~1749) 皇族で第5代平郡王ナルスの長子。母は曹寅(曹雪芹の祖父)の娘。父の死後に第6代平郡王となりますが41才で亡くなり、後を継いだ長子も夭逝したため、曹家は後ろ盾を失うことになりました。 |
その後、一説には乾隆14年前後から右翼宗学の教師または下級職員を務め、その時に学生であった敦兄弟と相知ったものとされます(敦誠が乾隆27年に曹雪芹に贈った詩で宗学で一緒だった時を回憶しているそうです)。
乾隆20年前後(呉新雷氏の説では乾隆19年)に宗学での職を辞して、北京西郊の西山に移ったものとされ(乾隆22年に敦誠が曹雪芹に詩を寄せた時には、既に西山に移っていました)、住居は香山の健鋭営(正白旗の駐屯地)付近だったとされます(呉恩裕氏の説)。
民間伝承によれば、曹雪芹は曹寅以来誼みのある両江総督・伊継善(いんけいぜん)に幕客となることを要請され、一年ほど南京を再訪したものとされています(周汝昌、呉新雷氏によれば乾隆24年)。
その後、生活はますます困窮し、敦誠の乾隆26年の詩では、家中粥をすすって飢えを凌ぐほどであったといい、曹雪芹は余技の絵を売って生活費に充て、酒代をも捻出したとされます。
康煕54年 | 1715年 | 一説には本年曹雪芹が生まれる |
雍正2年 | 1724年 | 一説には本年曹雪芹が生まれる |
雍正5年 | 1727年 | 12月に曹家が家産没収を受ける |
雍正6年 | 1728年 | 3~6月の間に家族とともに北京に移る |
雍正11年 | 1733年 | 福彭(曹寅の女婿)が玉牒館の総裁となる |
雍正13年 | 1735年 | 8月に雍正帝が崩御し、9月に乾隆帝が即位する 曹雪芹の高祖曹振彦が資政大夫に追封され、曹頫が内務府員外郎に起用されたという |
乾隆2年 | 1737年 | 傅鼐が内務府総管大臣に、平郡王福彭が将軍世襲職を賜る |
乾隆3年 | 1738年 | 傅鼐が罪をきせられて入獄し病死。福彭が朝政を預かる |
乾隆4年 | 1739年 | 巨大な変故に遭って一敗地にまみれたとされる |
乾隆9年 | 1744年 | 敦誠が右翼宗学に入る(雪芹も本年以降に右翼宗学で仕事をしたか) このころ曹雪芹が紅楼夢の執筆を始めたか |
乾隆13年 | 1748年 | 福彭が死去し、長子の慶寧が襲職する |
乾隆15年 | 1750年 | 一説にはこのころ曹雪芹が右翼宗学を辞し、北京から西郊香山健鋭営一帯に移ったとされる |
乾隆17年 | 1752年 | 石頭記前40回が完成し、脂硯斎がこの年か翌年に最初の評閲を行う |
乾隆19年 | 1754年 | 脂硯斎が二度目の評閲(重閲)を行う。甲戌本の成立 |
乾隆20年 | 1755年 | 伝承によればこの頃に曹雪芹が先妻を失う |
乾隆21年 | 1756年 | 脂硯斎が三度目の評閲(三閲)を行う |
乾隆24年 | 1759年 | 伊継善の招きに応じて江南を再訪したとされる |
乾隆25年 | 1760年 | 脂硯斎が四度目の評閲(四閲)を行う。庚辰本の成立 伝承によればこの頃に曹雪芹が後妻を娶る |
乾隆26年 | 1761年 | 敦兄弟が西郊に曹雪芹を訪ねる |
乾隆27年 | 1762年 | 4~9月に脂硯斎が五度目の評閲(五閲)を開始(しかしこの後乾隆30年まで中断) 秋に曹雪芹が槐園に敦敏を訪ね、敦誠と酒を飲む 一説にこの年の大晦日に曹雪芹が死去 |
乾隆28年 | 1763年 | 敦誠が曹雪芹に詩を贈って誕生祝宴に招く 一説にこの年の大晦日に曹雪芹が死去 |
乾隆29年 | 1764年 | 一説にこの年の初春に曹雪芹が死去 敦誠が「挽曹雪芹」、敦敏が「河干集飲題壁兼吊雪芹」、張宜泉が「傷芹渓居士」を記す |
乾隆56年 | 1791年 | 「新鐫全部繍像紅樓夢」初版(程甲本)が出版される |
乾隆57年 | 1792年 | 「新鐫全部繍像紅樓夢」改訂版(程乙本)が出版される |