紅楼夢の版本

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続作について
未完成のまま曹雪芹の手を離れた紅楼夢は、程偉元・高鶚の手により、乾隆56年(1791年)に木活字印刷で「新鐫全部繍像紅樓夢」として刊行されることになりました。
新紅学が成立すると「後40回は高顎の続作である」と提唱した胡適の説が定論となります。しかし、その後の研究で高鶚続作者を否定する見解が出されるようになり、未だ結論を見ていません。

(1)程偉元について

程偉元(ていいげん、1742年頃~1818年頃)、字は小泉、本籍は江蘇省呉県。科挙は途中で挫折し、幕友としてまたは書院等の教師としてその生涯を終えたものと推定されています。乾隆末年に寄寓した北京で紅楼夢120回の写本を入手したとされ、高鶚の援助を受けて校訂出版に当たりました。
筆禍事件を招きかねない「紅楼夢」を彼が敢えて刊行したことについて、中央政界の黒幕による政治目的があったとする説(周汝昌氏)もあります。

(2)高鶚について

高鶚(こうがく、?~1815年頃)、字は蘭墅(らんしょ)、別号は紅楼外史。本籍は遼寧省鉄峰。生年には乾隆3年(1738年・呉世昌氏の説)、乾隆11年(1746年・趙岡、陳鐘毅氏の説)など諸説あってはっきりしません。漢軍鑲黄旗に属する旗人で、乾隆53年に挙人、乾隆60年に進士となり、江南道御史、刑科給事中などを歴任しました。

(3)高鶚続作者説について

胡適氏は「大胆なる仮説」により、高鶚を後40回の続作者としましたが、(1)高鶚の号が紅楼外史であること、(2)著名な詩人である張問陶(ちょうもんとう)が高顎に贈った詩に「伝奇『紅楼夢』80回以降は倶に蘭墅の補うところ」と記していること、などをその根拠としています。
ただし、張問陶の「補う」というのが「補作」なのか、「補修・補訂」なのかについてが問題となります。

続作者説
高鶚を続作者と擬する説は清末より出ていましたが、胡適氏が提唱して以来、広く受け入れられるようになりました。高鶚続作説に疑問が出されるようになってからも、王利器、呉世昌氏などは続作説を堅持しています。呉世昌氏は、甲辰本の序の筆者である夢覚主人が高鶚であるとしています。

▩補修者説
高鶚は紅楼夢序で「乾隆56年」に程偉元に協力を求められたと記していますが、周春の「閲紅楼夢随筆」によれば、遅くとも乾隆53年(1788年)の秋以前に120回の「紅楼夢」写本が成立していたことが分かりました(続作者説をとる紅学家は、高顎は挙人になる前に続作を書き上げていたものと説を修正しました)。
さらに、「紅楼夢稿」120回本が発見されると、高鶚に似た筆跡で(改訂版の)修訂が加えられていることが分かり、高鶚が別本を参考に補修したとする説が強くなりました。
王佩璋女史は、程高本2種のうち、改訂版の甲乙本の方が改悪箇所が多いことから続作者とは考えられないとし、当初続作者説をとっていた兪平伯氏も説を改めました。
本当の作者については、林語堂氏は曹雪芹の原稿が大部分残っていたのだとし、趙岡氏は脂硯斎であるとし、黒幕説に立つ周汝昌氏は程偉元であるとしています。

高蘭墅(高鶚)関連年表
乾隆3年1738年 一説にはこの年に高蘭墅が生まれる
乾隆11年1747年 一説にはこの年に高蘭墅が生まれる
乾隆46年1781年 父と妻が相次いで死去する
乾隆53年1788年 順天郷試に合格し、挙人となる
遅くとも本年の秋以前に120回の「紅楼夢」写本が成立していた
乾隆56年1791年 程偉元に協力して「紅楼夢」の補訂作業を行い、萃文書屋より120回「紅楼夢」(程甲本)を刊行する
乾隆57年1792年 改訂版である「程乙本」を刊行する
乾隆60年1795年 恩科の会試に合格して進士となり、内閣中書に補せらる
嘉慶6年1801年 順天郷試の同考官となり、内閣侍読に昇進する
嘉慶14年1809年 侍読より江南道監察御史に選ばれる
嘉慶18年1813年 刑科給事中に昇進する
嘉慶20年1815年 この頃に死去する