- 科挙はいうまでもなく中国の官吏任用試験で隋~清末まで行われました。「紅楼夢」でも科挙に関する記述は多いです(特に宝玉は科挙の勉強を思いっきり嫌ってましたし)。
科挙の制度は時代によって変わります。隋唐代には秀才・進士・明教・明法・明算・明書の六科がありましたが、宋代以後は科挙は進士科に統一され、郷試(宋代は州試と呼ばれた)・会試・殿試の三段階制が採られました。最も制度の進んだ清代末には表のように11段階(科挙試は7段階)もの試験がありました。
- ◯破天荒について
- 「破天荒」とは「今までに誰もしたことのないことをすること」ですが、もともと科挙から生まれた言葉です。唐の時代に荊州から一人も進士合格者がいなかったために、荊州を天荒(文明未開の荒地)と呼んでいましたが、劉蛻(りゅうぜい)という人が初めて合格して「天荒」を「破」ったとの故事によるものです。
- ▩学校試(童試)
- 明代から科挙の受験資格者は国立学校の生徒(生員)でなくてはならなくなりました。学校の入学試験を童試といいます。本来は試験だけを行う科挙の反省から、優秀な人材を育成するために学校が作られたのですが、入学すれば科挙の受験資格が得られたため、清代には学校教育は殆ど意味がなくなり、人々は入学試験のためだけに必死で勉強するようになってしまいました。
童試は3年に2回の割で行われ、県試・府試・院試からなります。童試の受験生は童生と呼ばれました。だいたい県試で定員の4倍を採用し、府試で半分、院試でその半分が落とされて入学者が決まりました。
学校に入ると歳試という学力試験があり、成績優秀者は中央太学の国子監に行くことができましたが、監生から官吏になる道は殆どなかったため、生員たちはなるべく試験を受けないですむ工夫をしたといいます。
- ◯学政とは何か?
- 第37回で賈政は学政(学差ともいう)に任命されて地方に派遣されました。学政とは提督学政の略で、省の教育行政長官のことです。清代には各省に総督・巡撫と共に学政が置かれ、地位はやや低いものの対等の権限を持ちました。
学政の重要な仕事は試験監督で、3年の任期の間に必ず省内を2回巡回して歳試と科試を各1回、その都度院試を併せて行わねばならず、学政自身が試験官となりました。
- ▩科試
- 清代に追加された試験。郷試に応じる学力があるかどうかを判断する試験で、合格して郷試の受験資格を得た生員は挙子と呼ばれました。
- ▩郷試
- 学校試を突破した生員(秀才)を集め、三年ごとの秋に省で実施され、試験は1週間かけて行われました。合格者は約100人に1人という難関で、合格者は挙人と呼ばれ、正式に任官することができました。焙茗が「一挙にして名をなせば天下に聞こゆ、というじゃないですか」と言っているように、世間の目も一夜のうちに変わるほどの出世だったそうです。首席合格者は解元と呼ばれました。
試験場は貢院といい、一人だけ入れる独房が何千何万と長屋の形に連なったもの。挙人は三日二晩をここで過ごし、風雨と寒さ、疲労と緊張の中で食事・睡眠等何から何まで自分でやらねばならず、病気になったり発狂する者もいたそうです。
宝玉と賈蘭は郷試に合格して挙人になったわけですが、その前の段階の試験は受けていません。第118回で
◯李未亡人「二人は府・県学にも入っていないのに、どうして試験が受けられるのです?」
◯王夫人「この子のお爺さま(賈政)が二人のために監生の資格を買ってあげたのです」
との会話をしており、国子監の生員(監生という)は、銀米を上納して買うことができたそうです。
一方、巧姐が嫁いだ周氏の息子は、試験に及第して秀才になったところですから、ようやく郷試の受験資格を得た段階ということです。
- ▩挙人覆試
- 清代に追加された試験。会試の試験会場に入れるだけの人数にしぼるため、会試の1ヶ月前に実施されました。北京近傍の受験者は郷試の直後に実施して混雑を緩和しました。
- ▩会試
- 郷試の翌年三月に全国の挙人を集めて北京の貢院で行われた試験。首席合格者は会元、次席は亜魁と呼ばれました。合格者は殿試を受ける資格が与えられるのみで、資格は挙人のままですが、
一般に挙人と区別するために貢士とも呼ばれました。ただし、殿試では落第者を出さないのが通例だったため、会試をクリアすれば殿試に合格したも同然でした。
第1・2回で賈雨村は甄士隠の援助を受けて上京し、春に行われる「大比」に合格して進士になっています。ここの「大比」とは会試を指しているそうです。
- ▩挙人覆試
- 清代乾隆年間に追加された試験。殿試では落第者を出さないのが常だったため、(1)学力再確認、(2)殿試のリハーサル、(3)替え玉防止のための本人確認、の目的で行われました。
- ▩殿試
- 朝廷内で天子みずから行う試験。合格者は進士と呼ばれますが、特に首席合格者を状元、第二席を榜眼(ぼうがん)、第三席を探花と称しました。
科挙制度を改革して殿試を加えたのは宋の太祖(趙匡胤)で、それ以前は解試(地方試)・省試(中央試)制でした。皇帝自らが出題することで、
合格者(進士)の官僚全てが皇帝の弟子とする関係がつくられました。
紅楼夢で進士出身であることが記されているのは賈雨村、林如海(探花で合格)、賈敬の三人です。賈政は進士になるべく父から学問をしこまれていましたが、父の死に際して官界に入っています。
- ▩朝考
- 清代雍正年間に追加された翰林院採用試験。翰林院とは必要に応じて要職に派遣される官僚予備軍の場で、将来の昇進に有利だったため、誰もが翰林院に残ることを希望しました。状元・榜眼・探花は無条件に残れました。
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清代末期の科挙制度
学校試(童試) |
県試 | |
府試 | |
院試 | 合格者は生員(秀才)と呼ばれ、定められた学校に入学する |
歳試 | 学校における試験 |
科挙試 |
科試 | |
郷試 | 合格者は挙人と呼ばれる |
挙人覆試 | |
会試 | 合格者は貢士と呼ばれる |
会試覆試 | |
殿試 | 皇帝の面前における最終試験 合格者は進士と呼ばれる |
朝考 | 再確認のための試験 |