実は、探春が行ってしまってからというもの、黛玉は心が晴れず、夜はいつも悪夢を見ていました。夢の中では、浚われてどこかの国の王妃になり、びっくりして眼を覚ましては全身に冷や汗をかくのでした。こうして一人一人と去っていき、自分はいずれどうなるのだろう? 今は他人の厄介になっている身で、いろいろ心配事があっても相談できる肉親はいない。そう考えると、思わず涙がこぼれるのでした。
しばらくして紫鵑が戻ると、黛玉が泣きじゃくっているので、こう言います。「先ほど、頼大のおかみさんが人を寄越してスイカの盃(西瓜盅)を送ってくれましたので、お嬢様に食べていただくよう温めさせました。お嬢様の病気はようやく少し良くなったのに、また涙を流したりしているんですから。泣いて体を壊すようなことがあれば、お嬢様を可愛がってこられたご隠居様に背くことになってしまいますわ。それに、宝玉さんのこともお考えください。お嬢様も体を大切にしてこそ日一日と良くなるのですから」。
黛玉はご隠居様と宝玉と聞くと、さらに泣き崩れ、こう思うのでした。もしご隠居様が本当に私の心を汲んでくれるのなら、この一人孤独な女子が将来誰を頼ればいいのかを考えていただきたい。宝玉さんも頼れる方ではない。探春さんの婚儀が決まったあの日、彼は宝釵さんに対して「相見えて二つながら厭わざる(相看両不厭=ともに見飽きることは無い)」との話をしていたわ。考えれば考えるほど分からなくなり、むせび泣くのでした。
紫鵑はこれを見ると慌てて、こう思うのでした。宝玉さんの婚儀なんてどうなるか分からないんだし、ここはひとつ、探ってみるべきだわ。事と次第が分からなければ、将来どうしたらいいのか分からないもの。そこで、黛玉にこう言います。「お嬢様、今日はどうしてそんなに悲しんでいらっしゃるんです?」 黛玉はしばらくしてから涙をおさめて、「私はここでこうして大きくなったけど、ここにずっと住むという決まりもないわね。あんたも三のお嬢様と二のお嬢様を見てごらん。一人は遠くに行ってしまい、一人はあんな屈辱を受けているわ。いずれ、私たちにもその番が回ってくるのなら、いっそ、蘇州に帰るのもいいんじゃないかしら。多少ひもじい思いはするだろうけど、飢えるまでのことはないだろうし。わけもなく人に侮られるようでは、将来どうなってしまうことか!」
言い終わらないうちに宝玉が入ってきて、大声で泣き出しました。黛玉はこのところ、探春が嫁に行ってしまったため面白くなく、宝玉に対しても冷淡にしていたのですが、彼が両目を泣きはらしているのを見ると怪訝に思い、「いらっしゃい、何を泣いているのです? 私が何かしましたか?」 宝玉は泣きながらかぶりを振って、「あんたは先に出てきたから、二のお姉さんのことを知らないんだよ! さっき一緒に行った婆やが戻ってきて言うには、三妹妹が嫁に行く時に、こちらから迎えの人を出したんだけど、孫の旦那さんはどうしても帰ることを許さず、二姐姐は泣き続けて、食事もとらずに自殺するばかりだったんだって! 今では病気になってしまい、婆やは慌てて戻ってきたんだけど、何と言ったと思う?」 黛玉は迎春が自殺すると聞いてびっくりし、宝玉の問いかけに思わず涙をこぼして答えます。「もし生きていけるのなら誰が自殺などするでしょう。御母堂様もお尋ねになるでしょうに」。 宝玉は手を叩いて、「私もそう思ったんだけど、大奥様は二のお姉様が悪いっておっしゃるんだ。何でも、若い夫婦は離れがたいもので、帰らせないというのも仕方がないこと。死ぬの生きるのと騒いだところで、あの娘はちょっと腹を立てただけ、本当に自殺したりするものか。こんな些細なことで騒いでは人様にどう思われることか、と言っているんだって。妹妹、こんな話ってあるだろうか? 二のお姉様は大人しくて、黙って耐える人だもの。自殺するというのなら、きっと生きる望みを失ったんだろう。私たちには助けることができないし、両親も手をこまねいている有様だ。これこそまさに、悪人が災いとなり、善き人は生きるすべなしというものだよ」と、言い終えてまた大泣きするのでした。
黛玉はこれを聞くと、先ほどの悩みを思い出し、さらに涙が止まりません。紫鵑は笑って「お嬢様はやっと病気が良くなられたのに、二の若様がまた泣かせに来るなんて、どういうつもりです?」 宝玉はこれを聞くと急いで服の袖で涙を拭き、「私もちょっと気が触れたみたいだね。二のお姉様を救えないことばかり考えて、妹妹のことを忘れていたよ…」。
黛玉は答えず、宝玉が袖で涙を拭くのを見て、自分のハンカチを投げてよこします。宝玉は受け取って涙を拭き、「妹妹ももう悲しむことはないよ。もし本当に大奥様がおっしゃられたように、二のお姉様がちょっと腹を立てただけで自殺なんてできないのであれば、私たちも安心できるよね。今では三妹妹が行ってしまったから、妹妹も時間があったら私のところに遊びにおいでよ。四妹妹、邢妹妹、兄嫁様(李紈)のところでも構わないけど、一人でいては悩んで病気になってしまうからダメだよ」。
黛玉はどうしてよいのか分からず、また、先日のことを思い出して、泣くのをやめてこう言います。「私はやっぱり宝姉さんの詠んだ『相看両不厭(相看て共に厭わざる=互いに見つめ合って見飽きることがない)」が好きですわ。他の人だったら、どうして相看て共に厭わざることがありましょう」。 宝玉はさっと顔色を変えて、「あなたは私を怒っているの? 孟光が梁鴻(りょうこう)の思い違いを受け入れなかったのを知っているだろうに、ここでわざわざ蒸し返すの?」。 黛玉は冷笑して「私があなたの気にされていることを言ったので焦ったんでしょう。私も明日は宝のお姉様と山に茶摘みに参りますわ」。 宝玉は顔を真っ赤にして、目を大きく見開き、衣服をはだけながら、「私の胸を裂いて心を取り出し、妹妹に見てもらいたいよ!」
【補注】孟光荊釵 梁鴻に嫁に選ばれた容姿の醜い孟光は、嫁ぐ時に美しく着飾ったものの、梁鴻に相手にされなかった。深山に隠遁する人を探していたと言われて思い違いを詫び、再び質素な服に荊釵(いばらのかんざし)をつけたところ、梁鴻は喜んで迎え入れたという故事。 |
黛玉は宝玉の苛立った様子を見て後悔するのでした。宝玉さんはちょっと口を滑らせただけなのだろう、この二年間冷静に見たところ、彼は宝釵さんに対して姉弟の情以外の気持ちはないようだし、あんな話をして宝玉さんの心を傷つけるのではなかった、と悔やみました。そこで泣きながらこう言います。「そんなことを言って驚かせないで! 私があなたにとって邪魔なのは分かっていますから、やっぱり蘇州に帰ります!」 宝玉は「妹妹がどうして邪魔になるんだい? どこの誰かが私に縁談を持ってきているとでも言うのかい?」 黛玉は「あなたの縁談がどうであろうと私に何の関係があります?」 宝玉は笑って、「妹妹、安心していいよ。先日、母上が言ってたけど、外の者は素性が知れないから、私の婚儀は身内の中で進めるんだって。妹妹、よく考えてごらん。もし本当に結婚できれば母上の意思にも叶うし、私たちの心配事にもけりがついて、正に願ったり叶ったりじゃないか!」
黛玉はこれを聞くと恥ずかしさで真っ赤になり、「また馬鹿なことを。ご隠居様も奥様もそんな考えは全くありませんわ」。 宝玉は笑って、「妹妹がこの邸にやって来たあの日から、ご隠居様はそういう考えだったのさ。考えてもごらん、私たちは小さい時から同じ部屋で寝起きし、私たちこそ、ケンカした者が結ばれるという関係じゃないか。ご隠居様の外孫は妹妹一人だけなんだし、妹妹を可愛がらずに誰を可愛がるというのさ! ご隠居様がいつも私たちを気にかけてくださるのを見れば分かるでしょう」。 黛玉は恥ずかしくて顔を隠しながら、「今日は気がふれたの? 私の前でデタラメばかり言って。私、明日にでも、あなたに虐められたってご隠居様に訴えますよ!」 宝玉は嘆じて、「まじめに話をすると、そんなふうに突っかかってくる。でも、ちゃんと言わないと、妹妹は安心できずに病気になってしまうかもしれない。近頃はよく眠れているかい? どのぐらい寝られているの?」 黛玉は答えて、「三妹妹が行ってしまってからは、夜は二更(約4時間)も寝られていません」。 宝玉は嘆息して、「これもみな、妹妹が安心できないからこそ、日に日に弱ってきたんだよ。これからは安心したらいいさ」。 黛玉は頷いて、「もう行って下さい、少し休みたいので」。 宝玉は身を起こし、なおも安心できずにしばらく黙って黛玉を見てから立ち去ります。ぼんやりとしながら沁芳亭までやってきました。
ふと見ると、紫鵑が木の下で手招きしています。宝玉は何事かと思い、急いで寄って行き、「さっきは部屋であんたを見たのに、どうしてここにいるんだい?」 紫鵑は「若様とお嬢様との話を全て聞きましたので、ここで若様を待っていたんです」。 宝玉は「どうしたの?」 紫鵑は「先ほど、若様はお嬢様に言いましたよね、若様の婚儀は身内の中で進めることになるって。でも、宝のお嬢様や雲のお嬢様だって身内じゃありませんか?」 宝玉は笑って「人は私をバカだと言うけれど、あんたはさらにバカだな。雲のお嬢さんは婚約しているんだから、このうえ結婚するわけないじゃないか!」 紫鵑は「でしたら、宝のお嬢様は?」 宝玉は「親等を言えば、林妹妹は宝のお姉さんより近いじゃないか」。 紫鵑は「奥様とご隠居様は身内で婚儀を進めるとおっしゃっただけで、誰が一番近いかなんておっしゃっていません。ここはひとつ、二の若様にはご隠居様のところにお伺いいただき、早々にこのことが決まれば、私たちのあの方の病気も良くなりますわ。二の若様だって、かねてより私どものお嬢様の気持ちを待っていたのは無駄ではなかったということになりますわ」。 宝玉は「ご隠居様のところに今持っていってもいい話なのかな?」 紫鵑は「ご隠居様が最も可愛がっていらっしゃるのは若様とお嬢様ですもの、今行かないでどうするんです? 私どものお嬢様にはどうしようもないんです。今日も帰ってくるなり大泣きして、蘇州に帰ると言っていました。いつぞや、若様がこのことを持ち出した時、お嬢様はお怒りになりましたよね。今日はどうです? お嬢様は三のお嬢様が行ってしまって焦っていますし、心の内を打ち明けられる肉親がいないんです。今は二の若様一人だけなんです。お嬢様がまだお怒りになるようならこんな話はいたしません。お嬢様のことは二の若様のこと、私はあなた方お二人に気を揉んでいるんです。どうかそれとなくご隠居様に尋ねてみてはいただけませんか?」
宝玉はこれを聞くと非常に喜び、しばらく紫鵑を見てから、「好姐姐、私たちのことを心配をして周到に考えてくれたんだね。さしずめ、あんたのお嬢様は鶯鶯、あんたは紅娘ってところだね。私もさっさとこの事を成し遂げないと、あんたのお嬢様に顔向けができないね」。 紫鵑は頭を振って、「何が鶯鶯、紅娘なものですか、ぞっとしますわ。事が成れば私も心配事がなくなりますもの、若様の知らせをお待ちしますわ」と言い終えて去っていきました。宝玉はその後ろ姿を見て頷き、遠くに行ってしまうと嘆息して、「なんて情義に厚くて誠実なことだろう」と呟くのでした。
【補注】鶯鶯と紅娘 「西廂記」の登場人物。若い書生の張生が、旅先の寺で未亡人の鶯鶯と恋に落ち、侍女の紅娘の助けにより思いを遂げるというもの。 |
さて、宝玉のことはさておき、薛未亡人は頼大の家で一日遊び、夜になってようやく戻りました。すると、夏金桂もちょうど戻ってきて、薛未亡人を見ると急ぎあいさつをします。薛未亡人は金桂が帰ってきたのを見ると嬉しくて、「途中大変だったろう! 早く部屋に行ってお休み。厨房に言って食事を作らせようね!」 そして、金桂は自分の部屋に戻ります。
薛蟠が帰ってきた金桂を見ると、天上から鳳凰が舞い降りたかのようでした。あれこれと優しくいたわりますが、金桂は決して身を許そうとしません。薛蟠は彼女をひしと抱きしめて、「まだ私を怒っているのかい? 宝物が欲しいのなら、私が抱いてあげるよ」。 金桂は口をゆがめて、「自分の宝物でも抱いてなさい! 今では宝蟾こそがあんたの宝物じゃないの」。
薛蟠は久しく金桂に会わなかったので、乾いた薪に燃え盛る火が近づけたようでした(気持ちが熱く高ぶります)が、金桂が彼を受け容れませんので、熟い鍋の上の蟻のようになって(焦っていらいらして)いました。金桂は不本意ながら従いますが、数日もたつと、胸が苦しい、頭がくらくらする、目がかすむ、と言って医者を呼ぶように言うので、薛蟠は何度も人をやって呼びに行かせます。
金桂はさらに、「病気で夜も眠れません」と言って、秋菱にお伴をさせ、薛蟠には宝蟾の部屋で休むように求めます。薛蟠は「秋菱はまだ病気が良くなっていないんだから、やっぱり私がやろう。夜には茶なりや水なりが要るだろうから、私が世話したほうが秋菱よりいいだろう」。 金桂は「どうして旦那様を煩わせられましょう。宝瞻は元々私の侍女ですけど、今では旦那様のお気に入りで私も使い立てする気はないし、ほかの侍女は手荒いし、やっぱり秋菱に来てもらうのがいいんですわ」。 薛蟠は承知しないつもりでしたが、また金桂を怒らせてもと思い、薛未亡人に相談します。薛未亡人はちょっと考えて、「秋菱はやっと少し病気が良くなったところだし、行けば口論になるだろうね。ならば私が世話すると言っておくれ」。
薛蟠は薛未亡人に一礼し、「私のこともお察しください。嫁がやっと戻ってきたのに病気になってしまい、もし秋菱を行かせないことで、怒りで病気が重くなったらどうしましょうか!」 これには薛未亡人もどうしようもなく、秋菱を行かせるしかありません。秋菱は泣いて嫌がりましたが、薛蟠に何度も促され、やむなく涙を拭いて赴くのでした。
金桂は彼女をまた床に寝かせるのかと思いきや、自分と一緒に寝かせて親しく話をしようとしました。秋菱がどうして承知しましょう、何度も許しを請うと、金桂は笑って、「分かったわ、遠慮しなくていいのに。あんたは長椅子の上でお休みなさい。近くで寄り添えるから」。 秋菱はようやく寝床をしつらえます。金桂は彼女に背中を叩かせることも、水や薬を持ってこさせることもなく、優しい言葉で慰め、こう言うのでした。「殿の心にあるのは今では宝蟾だけ、私たち二人が心一つにしておかないと、親しく話せる者がいなくなってしまうわ」。
秋菱は夜になると咳が出ました。金桂は梨花露を二瓶持ってきて彼女に飲ませ、「食べてごらん、この梨花露は咳止めによく効くのよ」と言って瓶の蓋を開け、温水に混ぜて持ってきます。秋菱は慌ててこれを受取り、「若奥様はお休みくださいませ。私は若奥様にお仕えに参ったのに、病気のためさっぱりお役に立てておりません。私が若奥様にお仕えいただいては本末転倒ではありませんか」。 金桂は笑って「それは違うわ。私はこの薬で随分好くなったんだし、あんたは病気なんだもの、水の一杯持って来てからって何だっていうのよ。それに、あなたに来てもらったのは私の世話をさせようってわけじゃなく、仲良くなろうと思ってのことなんだから。あんたは気立てが良くて器量もいいのに、あのボンクラの殿でなければ、私たちを放っておいて宝瞻のところになんか行くもんですか。私から言うのも何だけど、宝瞻がどれほどのものだって言うのよ! あんたと比べたら何も出来ないじゃない! 甘い言葉で人を騙しているのよ」。
秋菱は、金桂が宝蟾だけを怒っていて、はっきりとは分からないものの自分には好くしてくれるのかもしれないと思い、心中喜ぶのでした。早朝、正房に上がり、薛未亡人が尋ねるのも待たずに喜び勇んで、「若奥様はきっと人が変わったんですわ。私に対しても、とても好くしてくれるようですし」。 薛未亡人も、「今回帰ってきてからもずいぶん大人しいね。いつもこうなら私たちの家だって好くなるんじゃないだろうかね? お前の病気もきっと良くなるよ」。
宝釵は笑いながら、からかって言います。「やっぱり母上が肉食を断って念仏を唱えたお陰ですね。兄嫁もきっと変わり始めたんですわ」。 秋菱は「そうであれば、私も明日は精進料理を食べ、念仏を唱えに参りますわ。天帝の御加護で若奥様に百歳の長命をお与えいただき、以前のように大騒ぎをして奥様やお嬢様に御心配をおかけすることがなければ私は満足ですわ」。 宝釵は「そうなれば結構だけど、二日もたって何か事が起きなければいいけれどね」。 秋菱は嬉しくて、小鳥に向かってさえ話しかけるのでした。夜遅くに部屋に戻ると急いで尋ねます。「若奥様は好くなりましたか? 何かお食べになりたいものがありましたら作って参ります」。 金桂は「私のことはいいのよ。この数日、あんたがそばで話をしてくれたので病気も随分好くなったわ。今晩は燕窩粥(ウミツバメの巣のお粥)を一碗食べたわ」。 秋菱は喜んで、「若奥様がまたお食べになりたい時には、私が作って参ります」。 金桂は笑って「あんたに行ってもらうことはないわ、厨房に一声かければいいんだから。そうそう、あんたに美味しいものを取っておいたのよ」と言ってレンコン粉で蒸したモクセイの花ケーキ(桂花糕)を持って来させます。
秋菱はとても喜んで、「若奥様、ご自身でお食べください。どうして私になんか残しておかれたんです?」 金桂は「私たちは上手くやっているもの、私一人で食べても面白くないので、あんたにも残しておいたのよ」。 秋菱は急ぎ礼を述べ、膝を曲げて一口摘まんで食べてみます。なるほど、甘くて美味しいので、「こんな美味しいケーキは食べたことがありませんわ」と言うと、金桂は笑って、「それは私の実家で代々伝わっているもので、私の母はよく作ってくれたんだけど、この前病気になってしまって。お年寄りを煩わせるわけにもいかないでしょう、今日はだいぶ良くなったので、真似て作ってみたのよ。まあまあ美味しいけど、私の母が作ったものには敵わないわね」。 秋菱は「後日私にも教えてくださいませ。私も習って作れるようになれば、奥様やお嬢様にもお褒めいただけますわ」。 金桂は「母が今病気なので、私は良くなったら何日か家に戻るわ。帰ってきたら教えるから、この部屋を代わって見ていてちょうだい。殿が来た時にも何かと都合がいいでしょう」。 秋菱は恥ずかしさで顔を真っ赤にし、「若奥様、何をおっしゃいます。私は病気がまだ良くないので、若奥様の代わりにこの部屋を使わせていただきますわ」。 金桂は「殿はどうせ宝蟾に夢中だもの、私たちに鼻の下を伸ばしてきても承知しなければ宝蟾に影口を言われることもないわ」。
秋菱はケーキを二口食べ、金桂に梨花露を飲ませてもらってから眠りにつきました。翌日、金桂は衣装たんすや行李を開けて宝石箱を取り出し、自身のアクセサリーを全て詰め込んで風呂敷に入れ、その周りに高価な衣装を詰め、その上を普段着で覆いました。整理が終わると、元どおりに衣装だんすに鍵をかけました。
さらに数日が過ぎてから、金桂は薛未亡人に暇乞いに上がり、母が病気になったので帰らなければいけないとだけ告げました。薛未亡人は留めるわけにもいかず、「これまで育ててもらったのだから、母上が病気なら早く行って見てあげなさい」と言って、籠を用意させ、多くの贈り物をします。
金桂は衣装たんすを開けて風呂敷を取り出し、戸締まりをしてその鍵を秋菱に渡し、「部屋をよろしくね」と言うと、秋菱は目を赤くして「はい」と答えます。秋菱は金桂を広間に送り、彼女が籠に乗るのを助け、涙を流して言います。「若奥様、家に帰られたらお体を大切に。ご隠居様の病気が早く好くなり、若奥様が早く戻られて、また久しくお仕えできますことをお祈り申し上げます」。 金桂は頷いて、「あんたも体を大切になさい。じゃあ行くわね」。 秋菱は籠が大門を出ていくまで見送ってから戻り、気が抜けたように薛未亡人の部屋へ行きました。
薛未亡人は「もう行ってしまったのかい? 母親が病気になり、娘はあの子だけだから可哀想だね。帰って看病するのもいいだろうね。あんたも暇ですることがない時にはこちらにお出で。嬢ちゃんたちと一緒に刺繍でもすれば楽しく過ごせるでしょう」。
宝釵は笑って、「母上、心配しなくても大丈夫ですわ。香菱は詩が作れますから、暇があれば林のお嬢さんのところに詩の講釈に行くか、琴児と議論に花を咲かせるでしょうから」。 宝琴は笑って「作ったら私にも見せてください。私はあなたの先生にはなれませんし、少しばかり知っているに過ぎませんけど、一緒に議論できたらお互いを高められるんじゃないですか」。 香菱は喜びに顔をほころばせ、笑いながら「そういうことでしたら、お嬢様、是非私に教えてください。まだよく分からないところがあるんです」。 薛未亡人は「女の子が詩や詞を学んでどうするの? 上手く作れたところで状元になれるわけでもないし、針仕事をしていたほうがずっといいのよ。この前の例の靴だけど、あんたは半分だけ作って放っておいただろう。今持ってきて、ここで縫って見せておくれ」。 香菱はうなだれて、仕方なく取りに戻るのでした。
宝釵は笑って、「母上のお話もあまりに過ぎますわ。女性は学がないのが徳、針仕事こそが上とは言いますけど、字を知っていれば暇を見て詩文を作ったり書画を書くことができます。書を読めば道理が明らかになりますから、家政を執る上でも大切ですわ。母上も鳳姐が字を知らないばかりにつまらない思いをされているのをご存知でしょう。帳簿は時間のある時に人に読ませて聞き取っていますけど、もしもあの方が詩書に通じていれば今より十倍もすごいでしょうに。香菱が嫌がっているのに、どうして針仕事をさせようとなさるのでしょう? ここは琴児と詩の談議をさせてやってください」。 宝琴も笑って、「本当にそうですわ。私にはどうして女子が字を覚えたり、詩を作ってはいけないのか分かりません。漢代の烏孫(うそん)公主、蔡文姫、その後代の謝道韞(しゃどううん)、左棻(さふん)、蘇若蘭、上官婉児(じょうかんえんじ)、李清照、朱淑貞といった方々はみな詩や詞を良くしましたし、彼女たちを称えない者はいませんわ! 私たちはそれも出来ずに毎日刺繍だなんて!」と言ったので、宝釵と薛未亡人は笑いを堪えられません。
宝釵は「あんたの言うことも道理ね。そんな古人を持ち出さなくても、海外の例もあるわ。そうは言っても、字を覚えて読書をするのは女子の本分ではないもの。時間がある時に詩を作るくらいならいいでしょう」。 宝琴は笑って、香菱と詩の談議に行くのでした。
さて、金桂が行ってしまうと、薛未亡人は暇ですることもないので、王夫人のところへ出かけました。東廊三間の正堂に入ると、玉釧児と彩霞が笑って出迎えて、「奥様はあちらの耳房にいらっしゃいますので御案内いたします」。 薛未亡人が東の耳房にやって来ると、王夫人は赤地に金糸でミズチを刺繍した背もたれに寝転び、秋香色に金糸でミズチを刺繍した枕にもたれ、窓辺には大きなオンドルがあります。梅花が描かれた一対の小卓には古代の銅の鼎(文王鼎)が置かれ、左側の卓上には窯製の美人の絵入りの盃型の花瓶にモクセイの花が挿され、芳香が漂います。いつもの銀紅撒花の椅子は既に翡翠撤花のものに換えられていました。
薛未亡人は笑って、「椅子も換えたのね。でも、今は立秋の十日になったばかりよ。このモクセイは少し早いんじゃないの」。
王夫人は起きて座り直し、薛未亡人の手を引いてオンドルの上に座るよう促しながら、「これは長屋の芸児がどこからか持ってきたのよ。私たちの園内ではまだ一月ほど後じゃないかしら」。 玉釧児が茶を運んできて、薛未亡人に向かって「本日奥様に言われて模様替えをしたんですけどいかがですか?」 王夫人は「このところいろいろあったので、侍女たちに換えさせたのよ。私も終わってくたびれたから寝転んでいたの。今日はどうしたの? そんなに喜んで大金でも手に入れたの?」
薛未亡人は笑って、「何が大金なもんですか! あんたは知らないだろうけど、今回嫁が帰ってきたら人が変わっていてね。騒ぎを起こさないし、秋菱にも好くしてくれるし。二人は離れがたいところをやっとお別れしたのよ」。 王夫人は不思議に思って、「本当に変わったの?」 薛未亡人は「騙したりするもんですか。菩薩様が見ていて、私の一片の真心を憐れんでくれたのよ。今では一層精進料理を食べ、念仏を唱えるようにしているわ」。 王夫人は手を合わせて、「阿弥陀仏、これからは良い方向に向かうようなら、あんたも腹を立てることも少なくなるわね」。 さらに「宝ちゃんはこの頃元気かい?」と尋ねると、薛未亡人は「最近はいつも琴児と裁縫をしているわ。琴児は西洋の本が好きなもんだから、あの子もこう言うのよ。『海外の書は私たちには合わないわね。女性は才無きが徳なんだから、いずれ梅家に行ったら三従四徳を実践すべきで、書を読むのもこのためよ。海外には子を躾け夫の両親を敬うようなものはないでしょう』って」。
【補注】三従四徳 昔の中国で女性が従うべきとされた教え。「三従」は幼時は父に従い、嫁いでは夫に従い、老いては子に従うべきということ。「四徳」は婦徳(女性らしさを守る道徳)・婦言(女性らしい言葉遣い)・婦功(家事)・婦容(女性らしい身だしなみ)のこと。 |
王夫人は嘆じて、「宝ちゃんと言えば、あの子を褒めない者はいないわ。私たちは実の姉妹だから隠さずに言うけど、ご隠居様に差し支えなければ、早く宝ちゃんに来てもらいたいのよ。今、ご隠居様が取り仕切っていて、宝玉の縁談は大方林ちゃんということなんだけど、私の考えは違うの。先日も殿と話をしたら、殿も身内での縁談はいいことだ、寛大で才徳がある者が良いっておっしゃったわ。ご隠居様を憚って、私もこの数年は宝玉の婚儀には触れなかったんだけど、三ちゃんが行ってしまい、今は持ち出してもいいでしょう」。 薛未亡人は「身内での婚儀なら外から連れてくるよりずっと良いわね。みんな小さい頃から一緒に大きくなったんだもの。でも、ご隠居様が林のお嬢さんを望んでいるなら、宝ちゃん自身が希望しないんじゃないかしら」。
王夫人はこれを聞くと焦って、「あんたからそれとなく勧めてくれないかしら。親の言うことには従うものと言ってもらえれば、宝ちゃんも礼儀をわきまえた人だもの。私共のあの方は林のお嬢さんを望んでいるけど、私はあまり彼女を好きじゃないのよ」。 薛未亡人は「あんたがそういう考えでも、ご隠居様に承知いただけなくてはどうするの?」 王夫人は「だから気を揉んでいるの。今日はわざわざあんたに相談したのよ」。 薛未亡人はちょっと考えて、「鳳ちゃんは頭が切れるから、良い考えが出るかもしれないわ。彼女に聞いてみましょうよ。私にいい考えなんかあるもんですか」。 王夫人は「そうね、じゃあ、あの人を捉まえて一緒に相談するとしましょう」。
薛未亡人は自分の考えを述べず、ここは避けるのがよいと思ったので、身を起こし、「あんたたちで相談して進めてちょうだい。私共のあの方が望んでいないのなら上手くいくとは限らないわよ! 嫁がいなくなって私はまだ家の中の仕事があるからもう戻るわ」と言って辞します。王夫人は彼女がご隠居様を憚り、事が成らないと後日顔を合わせずらいと思ったので無理強いはせず、薛未亡人が立ち去ってから人をやって鳳姐を呼びました。後がどうなるか知りたければ次の回をお聞き下さい。