宝琴はこれを知ると嘆息して、「お姉様にもいろいろ考えがあるでしょうけど、宝のお兄様と林のお姉様はとても懇意にされているのに、どうして二人の気持ちより賜婚なんかが優先されるんです? 宝のお兄様なら、こんな慣習はとんでもないことだって言われますわ。本当にこれでよいのか、よくお考えください」。 宝釵はかぶりをふって、「もうそんなに言わないで。娘娘が御存知であればよかったんだけど!」 薛未亡人は「縁は異なもの、もともと定められているんだから、私たちにはどうにもならないのよ」と言うと、一同はしばし嘆息するのでした。
一方、鳳姐は戻ると、薛未亡人に伝えにいったことを平児に話し、最後にこう言います。「宝のお嬢さんは望んでいるわけではないようね。私たちが思い至らなければ、彼女を埋もれさせてしまうところだったというのに」。 平児は「若奥様の考えは結構ですが、林のお嬢様はそこいらのお嬢様とは比べものになりません。事ここに至れば、私たちで会いに行きませんか。平穏無事に済めばいいですけど。何もわざわざあの二人を切り裂かなくてもよかったでしょうに。若奥様もあまりにむごいことをされましたわね」。 鳳姐は「筋から言えば、宝のお嬢さんのほうが林のお嬢さんより良いんでしょうけど、ご隠居様の手前もあり、私も奥様には考え直すようにお勧めしたのよ。でも、奥様の気持ちは宝のお嬢様にあって、大殿様もその考えですもの。私に何ができるって言うのよ!」 これには平児も嘆息やみません。
鳳姐が「旺児はもう利子を届けてよこしたかい?」と聞くと、平児は「二の旦那様(賈璉)が部屋にいらっしゃったので、持ってこないように言いました。あとで届けてよこすでしょう」。 鳳姐は「今回、あちらのお屋敷では何千両もの銀子を使い、赫知府にも七、八百両を届けたのに、これっぽっちの銀子では兵将たちの褒美には足りない、しみったれとさえ言われているんだってさ! 今年は東邸の庄園も見込みがないし、珍の旦那様は湯水のようにお金を使っているし、将来はどうなってしまうんだろう。なぜか知らないけど、部屋に籠もってきりで外に出ず、蓉児に行かせているようでは上手くいかないんじゃないかしら!」 平児は「あちらの邸では、大殿様(賈敬)がお亡くなりになられてから、珍の旦那様は騎射の練習と称して、実は賭場を開帳していると、あちらの人々は言っています。若奥様は御存知ないでしょうが、珍の旦那様は遊郭の妓女と仲良くなり、佩鳳と偕鴛さえほっぽって毎日出かけでいるそうですわ」。 鳳姐は手を叩いて、「なるほど、そういうことだったのね。分かったわ、二の旦那様が戻って来たけど、珍の旦那様のところへ行かせないことがまず大事ね。うちの旦那様の性格はあんたも知っているとおりで、珍の旦那様と一緒にさせると何をしでかすか分かったもんじゃないからね! 尤二姐の件も珍の大殿が事の起こりだっただろう? 旦那様はつまらない思いをしたけど、怒るわけにもいかなかったわね。今度また何か起きたら、私たちが食べきれない分は包んで持ち帰る(責任を取る)ことになるわよ」。 平児は「旦那様は戻っていらしてから庄園の事で忙しく、まだ何も起きてはいませんわ」。
そうして話していると、旺児が利子を届けに来ました。鳳姐は「二日も遅れたわね、私たちはこの利子が頼りなのよ。残りは期限までに持ってきなさい!」 旺児は「野暮な話ですけど、この利子ってのは本当に取立てが難しいんです。若奥様が自分でやられてみれば分かりますよ。私もやっと取り立ててまいったんですよ」。 鳳姐が頷くと旺児は退出しました。鳳姐は平児に向かって、「私たちのこの利子も数千両にはなったわね。もし二の旦那様に知られたら、ぱっと使われてしまうに違いないわ。もし頼りになる者がいれば、全部を私たちの名義にしておかず、別人の名義で運用してもらって構わないんだけど。信頼できる者がいないのよね。芹児なんか、銀子なんか見せたらネズミを見た猫みたいになるんだから」。 平児は「若奥様には申しませんでしたが、私もこのところ考えておりました。もし私たちの名義で出せば、こちらの邸の大奥様(邢夫人)や趙夫人(趙氏)が鵜の目鷹の目で狙っていらっしゃいますからね。頼りになる者がいないか、この数年冷静に見ておりましたが、一人心当たりがあります。若奥様、あの方を試してみてはいかがでしょう?」 鳳姐は「あんたが言っているのは長屋の芸児の事かい? ならば少し任せてみようか。ちゃんとやれるようなら、だんだんに増やしていってもいいだろうからね」。 平児は頷いて、人を遣って賈芸を呼びます。
しばらくすると賈芸がやって来て、急ぎ鳳姐にあいさつをし、また、平児に機嫌を伺って、「ここ数年、叔母上には大変可愛がっていただき、平のお嬢様にはいろいろと御配慮いただき、決して忘れはしません」。 鳳姐は笑って「先に礼を言わないでおくれ、あんたは気立てがよくてテキパキと仕事をしてくれるから、一つ頼みたいことがあるのよ。お願いできないかしら?」 賈芸は急ぎ立ち上がって、「叔母上の御厚情を忘れるようでは罰が当たります。どんなことでもお申付けください」。 鳳姐は笑って、「私のところに公の銀子があって、しばらくは使わないんだけど、使っちゃってから慌てても困るので、しばらくあんたに運用してもらいたいんだよ。あんたに貸し付けるから、千両の借用書を書いて銀子を持って行ってちょうだい」。 賈芸は笑って、「叔母上はいくら利息をとるつもりです?」 鳳姐は「このくらいでどう?」 賈芸はこれを見るなり、「高すぎます、誰も借りませんよ! 市場の利子だってもっと低いですよ」。 鳳姐は笑って、「ならば一割下げていいわ。高すぎて借り手がつかないからって、これ以上は下げないわよ」。
賈芸は少し考え、鳳姐が初めて自分に内緒事を託してくれたのだから、なおざりにはできまいと思って、急ぎ引き受けます。鳳姐は無利息であることを記載した借用書を用意させ、賈芸はすぐに書いて鳳姐に渡します。鳳姐はこれを受け取って、「このことは他の人には言わないでね。璉二の叔父上になんてもってのほかよ」。 賈芸は笑って、「私は愚か者ですが、叔父上に漏らしたりはいたしません。叔母上にはご安心を」と言うと、鳳姐は頷きます。
賈芸が出てくると、小紅が目配せしていました。賈芸は豊児がそばにいるのを見ると笑って、「叔母上の頼まれごとをお受けしました。お姐様方も何か要るものがありましたら、買ってきてさしあげますよ」と言うと、豊児は「マニキュア(指甲油)がなくなったので、お手数でも一瓶買ってきていただけませんか」。 賈芸は急いで承諾します。小紅は賈芸を見送るそぶりをしながら、「若様、このあたりは雨が降ったばかりで滑りますよ」と言い、豊児が付いてこないのを見ると、やっと笑って、「何を頼まれたのです?」 賈芸も笑って、「ありがたいことに、大事な用件を頼まれたんだ。のちのち私たちのことも承諾いただけるかもしれないね。明日花を持ってくるから、いつもの所で待っていてくれないか?」 小紅は「慌ててはダメですよ、司棋姐さんが追い出されたのを知らないんですか? 誰かにばったり会ったらどうするんです? 面目を失うような羽目になっては台無しですよ。私は待ちますから、しばらくしたら別の方法で若奥様にお願いしてみてください」。 賈芸は頷いて立ち去ります。
一方の鳳姐は、ふと秋桐のことを尋ねます。「二の旦那様は、このところ秋桐に会っていないのかい? あのあばずれは旦那様にあることないことを告げ口して、いずれどれほどの大事を起こすか分からないからね」。 平児は片付け物をしながら、「尤の若奥様(尤二姐)がお亡くなりになってから二の旦那様はあの方を嫌っておられます。今、あの方は気に入らずに背後でいろいろ騒いで、侍女見習を捕まえては当たり散らしていますが、さすがに若奥様の前で騒いだりはできないでしょう」。 鳳姐は「そうは言っても、あの娘の好きにはさせないよう注意はしておくのよ。あのあばずれは二の旦那様にいろいろ吹き込んでは、あとで騒ぎを引き起こすんだからね」。 平児ははいと答えて出て行きます。
さて、甄宝玉は林黛玉との婚姻が決まり、日々黛玉のことを思っていました。美しさは人に抜きん出ており、人並み外れて聡明で、詩詞歌賦全てに通じ、天女のような器量であると聞いていました。
ちょうどこの日、甄夫人は賈母の見舞いに彼を賈府に遣わします。甄宝玉は聞くなり喜んで、急ぎ身支度を調え、駿馬に騎乗し、書童を引き連れて栄国府門にやってきました。
見れば七、八人の正装した人が取次をしており、話を伝えて中に入ります。賈母は甄の若君が来たと聞いてとても喜び、急ぎ呼び寄せます。甄宝玉は数名の婦人に案内されて垂花門をくぐり、紫壇の大理石の屏風を曲がり、広間を再び曲がり、南北の穿堂を通って賈母の正房に到着しました。賈母はとても喜びますが、先に甄の若様が来たとの報告がなければ、賈宝玉が帰ってきたと思ったことでしょう。
甄宝玉は急ぎ賈母の前へ出てあいさつをします。しばらくして、再び四人の婦人が進物を運んできます。賈母は鴛鴦に命じて上等の緞子などを受取ると、婦人たちに褒美を与え、広間で酒を飲むように言い、そのまま甄の若君を留め置きます。
この時、鳳姐が後院からやってきますが、甄宝玉を見て賈宝玉が戻ってきたとばかり思い、びっくりしてこう考えるのでした。これはどうしたものかしら、林のお嬢様の婚儀がまだなのに、先に宝玉さんが戻って来て、林のお嬢さんに婚儀のことを話してしまったら元も子もないわ。娘娘の賜婚を知ったところで従うわけがないもの。しばらく考えがまとまらず、急ぎ進み出て尋ねます。「どうして、こんなに早く戻ってきたんです? もっと遊んでくればよかったのに、大殿様も戻っていらしたの?」 賈母は笑って、「こちらは甄の若君だよ。あんたは取り違えているんだよ」。 甄宝玉は急ぎ笑ってあいさつをし、「璉二様の奥様ですね! 前回参った時にお会いしました舌鋒鋭い叔母様ですね!」 鳳姐は手を叩いて、「どなたかと思えば甄の若様でしたか、びっくりしたわ」と言って、さらに尋ねます。「甄の大殿様と奥様はお元気?」 甄宝玉ははいと答えます。鳳姐は賈母に向かって笑って、「ご隠居様いかがです? あちらの玉が行かれたら、こちらの玉がいらっしゃったのでご隠居様もちっとも寂しくありませんね。うちの宝玉さんは不在ですから、ご隠居さまにはこちらの宝玉さんをお引き留めして何日か滞在してもらえれば、うちの宝玉さんが側にいるようですわ。それに、血を分けた外孫のお婿さんなんですから膝元で可愛がられるのも当然のこと、ご隠居様の福のたまものですわ」と言ったので、賈母はハハハと大笑いして、甄宝玉に賈政の書房に滞在するように言うと、甄宝玉も承知します。さらに賈母は甄家の婦人たちと書童に、甄の若君をこちらに留め置くことを戻って伝えるように言います。甄家の婦人たちは賈母が喜んでいるのを見てみな笑い出し、邸に戻って甄夫人に報告するのでした。
賈母は甄宝玉の手を取って笑って、「あんたという宝玉がいれば、うちの宝玉のことを考えずにすむよ。私と一緒にいておくれ。あんたがいれば、うちの宝玉の父親がひどく折檻してもうろたずにすむよ」。 甄宝玉は笑って、「叔父上は宝玉さんを折檻なされるのですか?」 鳳姐も笑って、「あの方は言うことを聞かないから、叔父様に折檻されるのよ。それを尋ねる時点で、うちの宝玉さんのやんちゃぶりには叶わないってことね」。 甄宝玉は笑って、「私も小さい時はやんちゃで、姉妹たちに交じって遊ぶのが好きでした。父上にぶたれた時に、姉上、妹よって叫ぶと痛みが軽くなるように感じたんです」。 賈母は笑って、「うちの宝玉と一緒じゃないか! 名家の子がこんなふうだから父親に嫌がられるんだろうね」。 さらに甄宝玉に「今は姉上、妹よって叫ばないのかい?」と聞くと、甄宝玉は「もう大きくなったんですもの、騒いだりしたら人に笑われますよ。以前は勉強が大嫌いでしたが、今は真面目に取り組んでいます。将来科挙に及第し、立身出世を果たさなければご先祖様に顔向けできない、そう思って身を改めたのです」。 これには賈母もますます喜んで、「本当に良い子だよ、よく分かっているじゃないか。うちの宝玉はまだ目が覚めないようだがね」。 甄宝玉は「小さい時に父上にぶたれましたが、祖母がかばってくれたお陰でこうして今に至っています」。 これには賈母も大笑いしてやみません。
鳳姐は笑って、「いかがです? ご隠居様は宝玉さんを最も可愛がっていらっしゃいましたから、こうして二人に増えましたわ。一人は実の孫、一人は外孫のお婿さんです。こんな不思議な話は聞いたことがありませんし、こんな楽しみはどれだけお金を出しても手に入りませんわよ」。 賈母は笑って、「この猿め、私が二つの玉を手に入れたからって、ついでに自分まで気に入ってもらおうとするんじゃないよ!」 鳳姐は笑って、「ご隠居様が可愛がられるのは孫と外孫のお婿さんだけ。私のように無口で無能で、両親の機嫌取りさえできない孫嫁なんて気に入っていただけるものですか! 二つの玉が結婚するこの機会に、ご隠居様の靴を拾わせていただきますので、ご隠居様に鳳児も辛いんだなと思っていただき、いつも孝行を尽くすようにすれば、私も可愛がっていただけるでしょうか」。
鴛鴦は笑って、「御隠居様、お聞きになりましたか。二の若奥様の何と殊勝なことか。こちらにいらっしゃった時には、ご隠居様はもっと可愛がってあげるべきですわ」。 一同は談笑しながら、この夜は月見をするのでした。閑話休題。
さて、林黛玉は宝玉が行ってしまってからというもの、日々指折り数え、もう金陵に着いたかしら、今日はもう蘇州に着いて父母の墓参をされただろうか、もう帰路についたろうか、あと何日で帰ってくるだろうか、などと考えていました。
黛玉はこのところ、打ち萎れて元気も出ず、くさくさした時には小さい時に宝玉と一緒に遊んだものを引っ張り出して来て、机の上でひっくり返したり眺めたりしていました。猫が突然机の上に飛び上がって花籠を落としたので、黛玉は猫を追い出して、その籠を拾い上げ、懐に入れて何度もさすってやるのでした。
黛玉はそれらの品を一つ一つ手に取っては、宝玉と一緒に遊んだ時の情景を思い浮かべていました。また、晴雯が届けてよこした古いハンカチを手に取り、そこに書かれた詩を見て、折檻された宝玉を見舞いに行ったことを思い出して涙がこぼれ、そのハンカチを懐に入れると、宝玉がもうぶたれないよう守ってあげられるように思えるのでした。
黛玉は気がふさいだので、思い切って花を弔った花塚のある場所まで来てみると、宝玉が自分に言った言葉がよみがえります。あなたが死んだら私は坊さんになりますよ。心が激しく乱れ、こう思うのでした。あなたは今でもまだお坊さんになるつもりなの? さらにあの年、宝玉が『西廂記』を持ってきて、二人で沁芳亭の上で頭を寄せ合って陶酔するように読んだことを思い出し、足の向くままに沁芳亭へと向かいます。宝玉が『西廂記』の言葉で自分をからかって腹を立てたことや、劉のお婆さんが来て酒令をした時に思わず『紗窓に紅娘の報ずることもなし(紗窓也没有紅娘報)』の句を使ってしまい、宝のお姉様に心を込めて諭されたことで、その誠実さに感じ入り、それからはお姉様を悪く思うことはなくなったこと、宝玉としょっちゅう言い争いをしていたものの、いつも自分が悪かったことなどを思うのでした。
ふと見ると、宝玉が亭のあたりから現われ、歩きながら園内の景色を見ています。沁芳亭の前まで来てもまだ自分に気付かず、両側の対聯を見上げて、「堤を繞りて柳は三篙の翠を借り、岸を隔てて花は一脈に香を分かつ(繞堤柳借三篙翠、隔岸花分一脈香)」とつぶやき、思わず頷いて、「本当に良い対聯だ、この見事な情景を見事に描き出している」と嘆息します。
黛玉はその前に歩いて行き、笑って「いつ戻っていらしたの? 教えてもくれずに、こんなところで対聯を眺めているなんて!」
その人はびっくりして頭を上げ、目の前のこの姫君をよく見ると、両眉は蹙(ひそ)むがごとく、両眼には愛情を含み、二つのえくぼには憂いを帯び、優雅なたたずまいに、内に秘めた強い意志を感じます。非常に驚いてこう思うのでした。この世の中にこんなに非凡な女性がいたとは! 天女でなければ、きっと私のあの妹妹に違いあるまい。そこで笑って「さきほど入って来たのですが、何人かの侍女見習に声をかけられました。妹妹がここにいるとは知らずに失礼しました」。
黛玉は口をすぼめて笑い、「江南の情景や、私どもの揚州や蘇州がどう変わったかも話してくれずに、いきなりお詫びだなんてどうしたんです?」 その人はこれを聞いて、「妹妹は江南の情景、揚州、蘇州の風光について話を聞きたいのですか?」と尋ねると、黛玉は笑って「姑蘇の林黛玉が姑蘇の状況を聞いちゃいけないの? 早くお話くださいな、勿体ぶっていると怒りますわよ」。
その人はこれを聞いて喜びに溢れ、やっぱりこの姫君こそ、自分が日夜思っていた林妹妹だったのだ! 嬉しさに笑い出して、「妹妹、慌てないでください。じっくりとお聞かせしますから。私は小さい時から江南で育ち、江南の情景を知らないはずはないのですから」。 黛玉は奇妙に思い、「またデタラメをおっしゃる。あなたは小さい時からここで育ったんですもの、何が江南ですか?」 その人は笑って、「私は確かに小さい時から江南で育ちました。このたび妹妹と婚儀を結ぶというのに、妹妹はまだご存じないのですか? 宝玉はふつつか者ですが、決して妹妹に悪いようにはしません。役人として出世して世間に名を馳せ、妹妹のようなこの上ない姫君に背くことは決していたしません。家門を輝かせ、祖先の名を汚すことがなければ、宝玉は死んでも悔いはありません」。
黛玉はこれを聞くとびっくりして、「あなたはこれまで私をからかっていたの? 結婚が決まったからって、私の前で役人になるだなんて。いつも役人なんて国賊だって言っていたじゃないの!」 その人は黛玉が怒ったのを見ると、急いで一礼し、「私がどうしてうそを申しましょう。そんなのことは小さい時に言った冗談です。男子たる者、立身出世して祖先の名を輝かせなければ、あの世で合わせる顔がありましょうか?」 黛玉は冷笑して、「あなたは一度江南に行っただけで随分変わってしまったのね。あなたを見誤っていましたわ! 今後二度と縁談だなんておっしゃらないでください! あなたと心を通わせるべきではなかったわ。やっぱりご隠居様にお願いして南方へ帰らせていただきます!」 その人は「妹妹は考え違いをしています。もう結婚は決まったこと、取り消すわけにはいきません。数日たてば私たちは結婚し、当然南方へ帰ることになります」。
黛玉は日々宝玉のことを思っていたため、この人を見て宝玉が戻ってきたものと思い、喜びのあまり余計なことは考えられませんでした。しかし今、彼の話は一向につじつまが合いません。この沁芳亭の対聯は彼が選んだものなのに、読み上げては素晴らしいと言っているし、間違いなく京の生まれなのに江南で育ったと言うし、自分を見て一礼をするしで、心に疑惑がわき起こります。叔父様と出かけて肝をつぶして、またおかしくなったのかしら。さらに、数日前のことに思い至ります。叔母様は甄宝玉とかいう人を義子にされ、宝玉さんとそっくりだと聞いたけど、この人なのではないかしら? そして彼の首をよく見れば、金のミズチの瓔珞に五色の絹糸で下げたあの美しい玉をかけていません。びっくりして全身に冷や汗が出、厳しい声でこう尋ねます。「あなたは誰? 宝玉さんに成りすますなんて。本当のことをおっしゃい」。 その人は「妹妹は何を怒っているのです? 私は甄宝玉です。成りすましたりなんてしませんよ! 数日前に妹妹との婚儀が決まりました。妹妹は花のような絶世の美女とお聞きし、一度お目にかかりたいと思っていましたが、期せずしてここでお会いでき、この上ない幸せというものです」。 黛玉はこれを聞くと、憤りと激しい衝撃に大声を上げ、鮮血を吐いてたちまち昏倒しました。びっくりした甄宝玉はしばらくどうしてよいか分からず、手を貸そうとすると、黛玉は顔面蒼白ながら、なお意識はあり、衣服の袖でその手を払い、「臭い男の人が私を支えたりしないで。さっさと行ってちょうだい!」
そこへ紫鵑が黛玉に薬を飲んでもらおうと探しに来ますが、この光景を見るとびっくりして顔が青ざめ、急いで駆けつけて体を支えます。一方で甄宝玉に向かって、「二の若様はいつ戻られたのです? どうしてお嬢様をこんなに怒らせたのです? 早く手を貸してください!」 黛玉はやんわりと頭を振って、「実は結婚の相手はこの方だったのよ! 甄宝玉さんよ」と言って涙が止まりません。紫鵑はこれはまずいと思って、急いで黛玉を背負うとゆっくりと瀟湘館に戻ります。黛玉はベッドに横になりますが、顔面は蒼白で吐血が止まりません。雪雁と春繊は急いでお湯を運んできて、黛玉の顔を拭いて口を漱がせ、さらに熱いお茶を運んでくると、黛玉は二口飲んでようやく一息つきました。
紫鵑は小声で「お嬢様、いったいどうしたんです?」と尋ねますが、黛玉は答えずに、ただ涙をこぼすばかり。紫鵑はまずいと思い、自らご隠居様に報告に行こうとします。黛玉は頭を振って、言葉もとぎれとぎれに、「必要ないわ、私、あなたに話があるの」と言って枕元を指さしたので、紫鵑はそこに座ります。黛玉の手を握ると指先がとても冷たく感じます。黛玉は弱々しい声で、「この数年、妹妹は私に付き添って面倒を見てくれたわね。妹妹は私の侍女だけど、私は血を分けた妹のように思ってきたわ。私は清浄な身で逝くことになるけど、一つだけ心配なことがあるの。ご隠居様に言って、私を蘇州に送って母親の近くに埋葬してくれるようお願いしたいの」。 紫鵑は両目を泣き腫らし、泣きじゃくりながら黛玉を慰めて、「お嬢様、焦らずに気持ちを大きくお持ちください。ちょっとびっくりされただけですから、お医者様に診て見ていただければ滅多なことになるもんですか。間もなく宝玉さんが戻ってくるでしょうから、何か方法を相談しましょう」。 黛玉は頭を振るばかりで、それ以上紫鵑に言わせず、とめどなく涙を流します。
紫鵑は黛玉の涙を拭きながら、「あの方は甄宝玉様なんですか? 本当に私どもの宝玉さんとそっくりですのね。私どもの宝玉さんだと思って甄宝玉様と結婚されるというのもないことはないのでは? あの甄の若様も多情な方のようですし、お嬢様が体を粗末になさることはないのではないですか!」 黛玉は頭を振って紫鵑の言葉を制し、面と向かって「外見の問題じゃないのよ!」 そして、自分の腕飾りを紫鵑に外させて、紫鵑の手にそっと置きます。紫鵑は泣いて頭を上げることができません。黛玉は目を閉じて、「もう行ってちょうだい! 私はちょっと休むから」。 紫鵑はようやく立ち上がって黛玉に錦の布団をかけ、黛玉の顔色は青いままながら少し落ち着いた様子を見ると、邪魔しないように退出し、賈母に報告に行こうとします。雪雁と春繊がこの話をしているのを聞くと、慌てて「もう少し小声で話しなさい、お嬢様に聞かれたらどうするの」。 しばらくたつと部屋の中が静かになったので、やっと「あんたたちも気をつけてちゃんとお仕えしてね。私はご隠居様に報告したらすぐ戻ってくるから」と言って出て行きます。
こちら雪雁は春繊に尋ねます。「あんた、お嬢様の結婚相手はうちの宝玉さんではなくて、甄家の若様だって言ったわよね?」 春繊は「そうよ。今朝早くに二の若奥様の部屋の小紅さんがこっそり教えてくれたの、絶対にお嬢様には言わないようにって。何でも、娘娘が宝の二の若様と宝のお嬢様の婚儀を賜られたので、お嬢様には隠して甄の若様に嫁がせることになったそうよ」。 雪雁が「宝の二の若様は知っているの?」と言うと、春繊は「出かけていますもの、知るわけがありませんわ! 戻って来ても承知しないでしょうし、私どものあの方もこんな有様ですもの」。 雪雁は「そうか、朝出た時に宝玉さんを見たので、てっきり戻って来られたんだと思ったけど、あの方は宝玉さんでなく甄の若様だったのね。園の中でお嬢様に会い、お嬢様はそのことを知ってしまったので、急に吐血してこんな有様になってしまったのね」。
実は黛玉はまだ眠っておらず、春繊と雪雁のこの話を聞いて、ようやく『金玉良縁』が賜られ、宝玉もまだ知らないことを知り、心中ますます宝玉のことを思うのでした。
しばらくして賈母があたふたとやってきて、見れば黛玉はベッドに横たわり、両目を固く閉じ、息もたえだえ、顔は青白く、うがい盆の中には鮮血があります。どうして我慢できましょう、黛玉の手を取って、声を上げて泣き出し、「私のせいだよ! お前はきっと私を恨んでいるだろうけど、このことは私にもどうにもならなかったんだよ。甄家の宝玉とうちの宝玉はそっくりだから、お前も喜ぶだろうと思って決めたんだけど、こんなことになろうとは」と言って、さらに大声で泣き出しました。
黛玉は両目に涙を流してこう思います。なるほど、娘娘の賜婚ではお婆様にもどうにもならないわけだ、お婆様を恨むべきではないわ。ようやく力をこめて目を開き、かすかに頷きます。賈母は痛哭止まず、王太医を呼ぶように言います。黛玉は再び力をこめて頭を振ります。
鳳姐はこのことを聞き、賈母が既に瀟湘館に行ったと知ると、敢えて行こうとはせず、病気だと言い逃れをします。一方、李紈と惜春は知らせを聞いて駆けつけますが、黛玉のこの光景を見ると、悲しみで涙がこぼれます。
夜遅くなっても賈母は帰ろうとせず、黛玉を見守るつもりでした。李紈はこう思います。ご隠居様はご高齢でいらっしゃるし、こんな状況に置いておくわけにはいかないわ。そこで、急ぎ慰め、「ご隠居様は早くお戻りになってお休みくださいませ! 林妹妹もお隠居様が悲しまれるのを見るのは辛いですわ。さきほど王体医が来て、林妹妹はまだ大丈夫だと言っていました。ここは私と四のお嬢さんでお世話しますから」と言って何度も頼み込んだので、賈母はようやく帰るのでした。
しばらくすると平児がやって来て、黛玉のこの様子を見ると、こっそりと李紈を引っ張り出して、「私どもの若奥様は風邪を引いて熱を出してしまいました。そうでなければ早くに来たんですけど。林のお嬢様のご様子を見ましたが、私は葬儀の準備をして厄払いをいたしましょう。こちらは奥様と四のお嬢様にお任せしますけど、林のお嬢様がこんなことになるなんて思いもしませんでしたわ」と言って涙をこぼします。紫鵑、惜春らは傍らで涙をぬぐいますが、泣き声を上げる者はいません。平児は目を真っ赤にし、涙を拭いて李紈らに向かって頷いてから立ち去りました。
瀟湘館の中はしばらくの間ひっそりと静まり返り、月の光だけが窓から注ぎ、西風が竹林にザワザワと吹き渡って単調な物音を発しています。コオロギは塀の下で物悲しく鳴いています。李紈が顔を上げると、机の上の薄暗いランプの光と黛玉の青白い顔を見て身震いし、雪雁に言って明かりを更に二つ灯させます。
さて、黛玉が眼を閉じると、煙雲がもうもうと涌き上がっている場所が目に入ります。宝玉が前方で手招きしているので付いて行くと、雲海の深いところに白石と朱塗りの欄干、清流と緑の木々が次第に姿を現し、まさに人跡まれな場所です。黛玉が「ここはどちら?」と尋ねると、宝玉は前方の大石の牌楼を指さして、「あそこに書かれている文字が見えないかい?」 黛玉が顔を上げると、『大虚幻境』の四字と両側の一副の対聯が目に入ります。
仮の真となる時、真もまた仮、無の有となる処、有もまた無(假作真時真亦假、無為有処有還無)。
黛玉は頷いて嘆息し、「ここには来たことがあるわ、本当に良いところね」。 宝玉は「私が受け持つ女児国はとても清浄な場所で、桃源郷に勝るとも劣らないよ。晴雯と司棋を見ただろうけど、今度は妹妹の番になったね。ここは離恨天の外、霊河のほとり。川辺のあの絳珠仙草を見てごらん、何て元気に育っていることか。その垢抜けした淑やかさ、神仙の如き見目麗しさは正に妹妹のようじゃないか」。 黛玉が近づいてよく見てみると、確かに自分の面影があるようです。こう思うのでした。宝玉さんはいつも『木石姻縁』と言っていたけど、私はまさに霊河のほとりの一本の野草なんじゃないかしら?」
黛玉がじっと眺めていると、ふいに宝玉が「やっとここに来れたんだから、思う存分遊ぼうよ。妹妹、楽しまないでどうするんだい!」と言って黛玉を追いかけます。黛玉は霊河のほとりを走ったり、林に隠れたり、手を叩いて歓声をあげたりします。さらに、宝玉と肩を並べて花々の間を歩いたり、手に手を取って草原をぶらついたりします。宝玉は一輪の野の花を摘んで黛玉の鬢(びん)に挿し、黛玉は草の葉を摘んで宝玉の胸につけます。花の間を飛び回る蝶をじっと眺め、林の中で小鳥が呼び合う声に耳を傾けます。キラキラと輝く美しい石やカラフルな貝殻を拾います。緑の木々に赤い花、敷き詰めたような青草、帯の如き清流、緑の峰が群れ立つ大地、二人は互いを見て笑います。疲れを覚えて霊河のほとりで若草の上に横になり、のんびりとした気持ちで夕焼けを眺めると、これまで味わったことのない自由と歓楽を感じ、こう思うのでした。ここは本当に良いところね、一生をここで暮らせて清浄な身となり、『木石姻縁』を結べれば素晴らしいことだわ!
二人が夢中になっていると、突然、石の牌楼の方から一人の老夫人がやって来ます。黛玉は「あら嫌だ、ご隠居様が私たちを捕まえにいらっしゃったわ!」 宝玉はこれを見て「ご隠居様というより母上のようだね、早く逃げようよ!」と言って、黛玉の手を強く握って霊河の岸に沿って走ります。
すると、その夫人が呼びかけます。「神瑛侍者、絳珠妹子とお見受けします。私は警幻仙姑です。絳珠妹子が今日いらっしゃることを知ってお迎えに参りました。侍者は早々にお立ち去りください!」
宝玉が振り返って見ると、確かに警幻仙姑であったので、前に出て一礼し、「仙姑がお出でとは知らず、失礼しました。黛玉妹妹がここに来たのを御存知でしたら、この素晴らしい場所に我ら二人が身を寄せることをお許しいただきたいのですが」。 警幻は笑って「侍者は本来美しき玉、下界では『金』がお待ちです。早くお戻りいただき、『金玉良縁』を結んでもらうのが何より大事なことですわ」。 宝玉は「それは違います。私がどうして美しい玉でしょう、愚昧なただの石ころに過ぎませんよ! 仙姑は黛玉妹妹を絳珠と呼びましたから、元はきっと一本の野草なのでしょう。私たちはこの地で永遠に『木石姻縁』を結びたいのです。仙姑にはどうぞお慈悲を賜り、私たちをお助けください」と言って深々と一礼します。警幻は「あなたと絳珠には因縁がありましたが、彼女はあなたに涙を返し終えました。絳珠は本日帰って来ますので、侍者が見送りいただくのは構いませんが、良縁と言えばやはり『金玉』ですから、侍者は早々にお戻りいただきますように!」
宝玉と黛玉はびっくりして涙をとめどなく流し、納得できるわけもなく、互いの手をしっかりと握ります。すると突然、石の牌楼から黒い風が吹き荒れ、警幻はたちまち凶暴な悪魔に身を変えます。黛玉の手から宝玉をさらうと、驚いた黛玉は「宝玉さん」と声を上げるのでした。
紫鵑は黛玉が夢の中で叫ぶのを見ると、急いで呼び掛けます。「お嬢様、お目覚めになって! お嬢様、どうなさったの?」 黛玉は目を覚まし、紫鵑、李紈、惜春らが側にいるのを見ると、ゆっくりと話します。「夢を見ていたわ。外はもう明るくなったの?」 雪雁は「ようやく明るくなってきました」と言ってお湯を運んできて、黛玉が目を覚ましたのを見ると、急ぎ顔を洗ってやります。
李紈は紫鵑に命じて燕の巣の粥を温めさせ、「妹妹、少しお食べなさい。元気が出れば日一日と良くなるわよ」。 紫鵑も急ぎ食べさせようとしますが、黛玉は食べようとしません。またしばらくして雪雁が薬を運んできますが、黛玉は力まかせに払いのけます。李紈は黛玉が食事も薬も拒むのを見ると、しばらく途方に暮れるのでした。
そこへ、賈母の遣いで鴛鴦が様子を見に来ました。李紈は惜春に言って、鴛鴦と一緒に賈母に知らせに行かせます。さらに、黛玉がまだ気力が残っているのを見ると、惜春が年若くて上手く説明できないのではないかと思い、紫鵑に黛玉の世話をお願いして自ら賈母のところへ向かいます。
一方、紫鵑と雪雁は御用田のうるち米の粥を温めてきますが、黛玉は食べずに、宝玉が昔ここに置いていった物を取り出して一つずつ見せるように二人に言います。
紫鵑は箱を開けて、宝玉が置いていった寄名符を取り出すと、黛玉は頷き、持ってこさせて自分の首に掛けさせます。紫鵑はさらに、宝玉が身につけていた上着の帯を取り出します。黛玉は、宝玉が来て暑いと言って自分で帯を外し、そのまま付け忘れて置いていったことを思い出し、紫鵑にその帯を持ってこさせると、惜しむように何度も撫でます。紫鵑はさらに巾着と袋に入った扇子を取り出しますが、いずれも宝玉がいつも身につけていたものでした。黛玉は宝玉とケンカをして、香袋にハサミを入れたり、宝玉に贈った巾着も切ろうとして大いに悔やんだことを思い出し、ますます宝玉のことを思うのでした。今でも私が作った巾着とビンロウの袋を身につけてくれているかしら? 口が乾いてビンロウを噛んだ時にはきっと私のことを思ってくれているでしょう! でも、帰って来た時にはもう会えないんだわ。そう思うと悲しみで涙を流します。黛玉は亡くなった後にその扇と巾着を自分と一緒にしてくれるよう申し付けます。
紫鵑と雪雁はむせび泣くばかりで言葉になりません。黛玉が「私の詩稿もあるでしょう?」と言うと、雪雁は急いで探し出します。黛玉は「宝玉さんが帰って来たら、これを記念に差し上げて。この詩は宝玉さんと姉妹たちで一緒に書いたものだけど、もう一緒に詩を作る事はできなくなってしまったわね!」
紫鵑は黛玉がこれ以上悲しむのを恐れ、宝玉の品物を片付けようとしますが、黛玉は弱々しい声で尋ねます。「ほかに詩を書いた古いハンカチがあるでしょう。どうして持ってきてくれないの?」 雪雁はやむなく、黛玉の目の前に持っていき、「お嬢様がおっしゃっているのはこれですか?」 黛玉の目が輝き、受け取って手の中で強く握ります。宝玉が折檻された時、自分は両目を泣き腫らし、宝玉は晴雯を遣わしてこの古いハンカチを贈って寄こしたことを思い起こします。私の悲痛な思いに対し、これが相応しいと思ってくれるあたりは、実に得難い知己というべきだわ。これで生き別れとなり、死に際にもお目にかかれないのね。そう思うと涙がとめどなく溢れ出ます。黛玉はどうしてこんなにも涙が出てくるのかと驚き、そのハンカチで涙をふきます。ハンカチが涙ですっかり湿り、次第に涙が出なくなると、黛玉はもう口が利けませんでした。
そこへ、李紈や惜春らが戻って来て、黛玉のこの様子を見ると慌てて呼び掛けます。黛玉は目を開いて二人を見て、口元に寂しげな微笑をたたえると、眠るように両目を閉じ、この世に別れを告げて再び目覚めることはありませんでした。
瀟湘館内には悲痛な泣き声が満ち、紫鵑や雪雁らは死なんばかりに泣き崩れます。李紈や惜春も涙に暮れます。思えば、黛玉は天涯孤独の身で、頼るべき者もなく、ここで寂しく死んでしまいました。また、黛玉の平素素晴らしかったことばかりが思い起こされます。しかし、黛玉が亡くなった以上、後の事をあれこれと行わなくてはいかず、涙をおさめて、紫鵑と雪雁に「あんたたちも辛いだろうけど、お嬢さんの体がまた温かいうちに早く身を清めてあげてちょうだい!」 紫鵑と雪雁は泣きながらお湯を運んできて、黛玉の髪を整えて顔を洗い、衣服を替えます。見ると、黛玉は手の中に古いハンカチをまだ握っていたので、そっと取り出して黛玉の胸の上に押し当て、先ほど言われたものを一つ一つ黛玉の側に置いてから身仕度を整えました。李紈らは賈母に報告し、天文生に頼んで日を選んで納棺しました。瀟湘館には霊安所が設けられ、紫鵑や雪雁らは喪に服し、霊を守って泣き暮れます。
賈母も何度か哀哭に訪れ、邢、王二夫人も一度ずつ哀哭に来ました。姉妹たちも黛玉が亡くなってから入棺まで、宝釵、宝琴、李紋、李綺、岫烟が次々に来て、声が枯れるまで泣きました。宝釵は霊前で跪いたまま起き上がれませんでした。後の事を知りたければ次回をお聞きください。