皆様からのご意見集

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ごんぞうさん(2002年09月24日)
こんにちわ! いつも楽しくHP拝見させていただいてます。 意見というか、「豆辞典」を見ていてふと気づいたことなんですが、一刻館にはいくつテレビがあるか、というところで、朱美さんの部屋にはないことになってますよね。その理由の一つとして、たしか最初の年末のお話の中で、朱美さんが大晦日は管理人室で紅白を見るとか言ってた気がするんですよ。単に一人きりはさみしいから、なのかもしれませんけど。それで朱美さんはテレビを持ってないのかも、と思ったのでした。つまらないことでスミマセン。これからもますます突っ込んだ情報、楽しみにしてまーす。
(管理人より)
ご指摘の年末の場面については、一緒に年越しをするのが目的であれば、朱美さんがテレビを持っていない根拠とするには弱いかもしれません。朱美さんの部屋には原作でもテレビかな?というものが描かれていたりするのですが、はっきりテレビの存在を示す証拠は見いだせませんでした。

kumaさん(2002年08月31日)
私は鹿児島の出身ですが、子供の頃、鹿児島ローカルのコマーシャルで響子さんが出てくるものがあったものでメールさせていただきました。
「さつま 五代」という焼酎があるのですが、私の記憶では、響子さんがこの焼酎の一升瓶を抱いて「五代さん・・・」とつぶやくものだったように思います。
おそらく1986年くらいだったかと・・・ あやふやな記憶で確定はできないのですが・・・

アニメファンの方で、「さつま五代」の広告キャラクターに「めぞん」が使われたことを知ってる方でも、どうやらテレビCMがあったことまではご存知ないようでしたので、再度ご連絡差し上げた次第です。
私の記憶をたどってみますと、もしかしたらCMはアニメ放送の前だったかもしれません。
おそらく84,5年くらい? 80年代半ばだと思います。
響子さんの声は、アニメの声優さんとは違う声だったように記憶してます。
CMはアニメでなく、上のテレカの静止画像だけだったと思います。
地方のCMでよくある低予算CMの典型的なものだったと思います。


(管理人より)
(2024年04月20日追記)
こちらのyoutubeで紹介されています。

オトナシソウジロウさん(2002年07月10日)
前回(7月8日付けメール)に関連する質問をもうひとつさせていただきます。一刻館は、読者についに明かされなかった音無惣一郎の顔とともに「死」あるいは「失われた過去」を表象する記号性を持つとする考え方があります。この考え方について管理人様はどう思われますか?物語を盛り上げるのに多大な貢献をした桜吹雪あるいは桜の季節(「死」と「再生」の意味を併せ持つ)の描写とともに、『めぞん一刻』のテーマの根幹を成す考え方だと思われますが、いかがでしょうか?
(管理人より)
真相は作者のみ知るところで、読者それぞれに解釈が自由な部分だと思います(^^)が、私自身は一刻館を懐古の象徴とは捉えていません。惣一郎さんの顔が結局明かされなかったことについては、シークレットな部分をもたせておくことで、惣一郎さんの絶対性・神秘性を強調する意味合いがあったものと考えています。
惣一郎さんの命日を春に設定したことについてですが、「変化」や「出発」のイメージをもつ春こそが、響子さんが段階的に気持ちを整理する時期としてふさわしかったのだと思います。必ずしも桜の開花期とはリンクしていませんが、満開の桜や桜吹雪は響子さんの心情とも相まって、読者に鮮明な印象を残してくれたと思います。つまり、私はエピソード性を強調する演出効果であったと考えています。

オトナシソウジロウさん(2002年07月08日)
前回の質問はストレートに過ぎました。では、質問を変えてみます。『マンガ夜話・4』の、竹熊健太郎氏といしかわじゅん氏の話にもでましたが、『めぞん一刻』の最終話において、五代君と響子さんが一刻館に戻った場面で幕が下りました。これは大方の予想に反していたそうです。「テーマパーク」ともいわれましたが、このことについてはどのようにお考えになりますか?また、一刻館の時計台の意味についても巷でさまざまな考察がなされています。管理人様のお考えをぜひ、述べていただけませんか?
(管理人より)
「大方の予想に反していた」という話は聞いていません。むしろ当初から予想されていた、必然の結末に回帰したという意見が大半だったと認識しています。
次に、どんな作品でも個人の産物である以上、作品群を作者のテーマパークとして捉えるのは自然な見方だと思います。
最後に、めぞん一刻を読み解く鍵の一つが「時間」です。四季の繰り返しの中で登場人物は成長し、物語が進んでいきますが、綿密な時間設定と場面設定に驚かされることもしばしばです。時計坂に立つ一刻館、そして大時計はまさにその象徴であり、作者の設定の妙と言えるのではないでしょうか。

オトナシソウジロウさん(2002年06月30日)
作家の平井和正氏はかつて「めぞん一刻・考」で、「『めぞん一刻』の存在する世界の基盤が、異様に危うい現実の均衡の上に成立している・・・」さらに「・・・いつこの平穏な日常が木端微塵に砕け散り、根こそぎ消えうせてしまうかわからない。」と、不安げに「一刻館的日常」の未来について述べました。経済の破綻と治安崩壊・社会不安、息の詰まりそうな超管理・監視社会の到来と言論統制、虚妄のナショナリズムと全体主義・ファシズムの跳梁跋扈、戦時体制構築と軍国化・・・・・。「一刻館簡易掲示板」でも述べましたが、わたしたちは、いま、まさに『めぞん一刻』に象徴されるような「戦後民主主義的平和と日常」の「死」に直面していると思います。この「死」をどう乗り越え、「再生」への道を歩むかが、いま問われていると思います。管理人の平山様は、いかがお考えでしょうか?
(管理人より)
個人的に考える部分はあるのですが、この「めぞん一刻小辞典」は作品中の設定解析に特化したサイトですので、ここで私見を述べることは差し控えさせていただきますm(_ _)m。

サクラサキオさん(2002年06月30日)
「皆様からのご意見集」の前野メリーさんのアジサイの花に関するご指摘に関して、です。
同じ話(第7話「五代くん悩みます!響子さんの好きな人」)の中に、響子さんが庭に咲くアジサイを見ながら惣一郎氏を回想するシーンがあります。
このシーン、もちろん原作にはありませんが、写真を撮った時の様子を再現したかのような内容になっています。

ですから、問題の写真はこのエピソードと関連づけるため、あえてコスモスではなく、アジサイにしたのだと思います。アジサイにしたのは、この回の時間設定、すなわち五代君が大学入学してしばらく経った頃で且つ夏になる前、に単純に従っただけ、でしょう。
要するに、あえて全体の時間設定は度外視した、この回のお話を盛り上げるための演出の一環、といったところではないでしょうか。

これは「時間設定の緻密さが場面によって異なる」(笑)アニメ版の特徴が現れた一例、と言って良いのではないでしょうか。


(管理人より)
少しもやもやします。放送日は5月でしたが、回想シーンのコスモスをわざわざアジサイに変更する理由はなかったのではないかと思いますね。

前野メリーさん(2002年06月29日)
はじめまして。
もう既に指摘されてるかもしれませんが、アニメで五代が初めて郁子の家庭教師をしたときにアルバムを見ていますが、その中で響子さんがお嫁にきた頃の写真が出てきました。
この写真の背景は紫陽花で、季節は6月頃と思われます。
しかし、惣一郎の命日は四月で結婚半年で死んでしまったことから、矛盾していると考えられます。
ちなみに、原作の方では違う花が描かれていますが、これは秋の花なのでしょうか?
(管理人より)
確かに原作ではコスモスですが、アニメではアジサイが描かれています。惣一郎さんは秋に結婚して春に亡くなっていますので、新婚の風景にアジサイが出てくるのはおかしいですね。

teruさん(2002年05月04日)
ゲームのことについてお聞きしたいのですが、実は当時高校生だった関係でFC等のゲーム機を持っていなかったので、購入することができず、またWin版が発売されていたということも知らなかったんです。(なさけない..)
そして、つい先日このHPをみつけて存在をしったしだいなのです。掲示板でオークションで調べるしかないと教えていただいたのですが、ほかに購入する方法をご存知ないでしょうか?
(管理人より)
ネットで探すのがやはり一番近道かと思います。
昔は秋葉原等の某店で売られているなどという情報が時折流れましたが、今はその手の話題もなくなり、中古店を丹念に探しても見つからないかと思います。ゲームのロム自体はネットで流出しているという話も聞きますが、もちろん違法です。
そもそもWin版が出た時、実はえらい不人気で、定価30,000円、限定3,000本で大々的に売り出した割に予約はさっぱりで、ずいぶん長いこと注文を受け付けていました。売れ残りが他に流れたとも言われました(実際、30000円を投入するなら中古でもファミコン本体とソフトを買った方が安かったりするのです)。
但し、内容は所詮10年以上前のゲームですから、実際に入手してプレイしても、失望の方が大きいことは十分に予想できます。

PasterKeatonさん(2002年04月20日)
ちょっと思ったのですが、時計坂ってどのくらいの坂の大きさなのでしょうか?
演出的な高低ではなく、実情の高低差を演出上効果として強調したのを含めて、です。
マンガ版は殆ど判らないのですが、実際には高低差は十㍍も無いのではないでしょうか?
実際に十mほども無い高台の住宅地でも実際の見た目以上に結構高低があるように思えます。
時計坂市に対する考察はあっても、時計坂市自体の様相の考察はまさに稀有ではないでしょうか?
実際に東久留米近辺周辺でもビル3階分位の高低はあります。
((広い意味での)武蔵野自体は結構高低があります)
どうでしょうか?
(管理人より)
原作でも時計坂の中腹から町並みが一望できますので、相当な高低差があるのではないかと思います。
ただ、原作中盤まではビルの屋上まで見えるほどの高さでした。場面によっては山の中腹ほどの高さがあり、尋常な高度差ではないと思います。
「弱虫」あたりから数階建てのビルの屋上と同等の高さで描かれるようになり、この程度の坂であれば実際にも至る所で見ることができます。
一刻館前の道も当初は20度以上の傾斜がありましたが、後半になるほどその傾斜は小さくなっていきます。一刻館の地点で高度がどのくらいなのか断定できるコマは見あたりませんが、私はPasterKeatonさんが考えられるよりは高いのではないかと思います。

かならさん(2002年04月15日)
今回は、ちょっとわからないことがあったのでメールさせていただきました。最終巻「好きだから…」で、響子さんは一体電車に乗ってどこへ行こうとしていたのでしょうか?話の流れから考えて実家の高嶺ハイツの実家ではないかと思っていたのですが(駅周辺が時計坂っぽくなかったし)、「本当のこと」で、五代君とこずえちゃんは、キャバレーから”歩いて”ホテルΩの脇を通り過ぎています。ならばキャバレーと響子さんの実家は同じ街にあるのかな?と思っていたのですが、その後「約束」では、キャバレーの帰り道、響子さんの父を送るところで、「今、駅から…」という、「電車に乗って帰ってきた」っぽい発言があるのですよね。。なんだか訳がわからなくなってしまいました。管理人さんはどう思われますか?
(管理人より)
私の考えは次のとおりです。
1)キャバレーバニーはホテルΩの近くにある。
2)高嶺ハイツはここから更に電車に乗らなくてはいけない。
のは間違いないとすれば、響子さんは「乗り換えの途中で五代君につき合った」のではないかと思います。つまり、響子さんは高嶺ハイツに戻るつもりでしたが、五代君に“少し話す時間がほしい”と言われて、バニーに行く途中まで付きあってまた駅に戻ることにした(または一駅分歩いて次の駅から電車に乗ることにした)のではないかと。

ちなみに、細かい検証はあまり意味がないのかもしれませんが、
○時計坂=東久留米
○キャバレーバニー=渋谷
○高嶺ハイツ=高井戸
だとすれば、五代君は渋谷で終着、響子さんは渋谷で京王井の頭線に乗り換えることになりますから、つじつまは合いますね。


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