大観園は曹雪芹が創造した虚構であり、数多くの古典の庭園を総合したものであるとする説が大勢を占めていますが、モデルが実在するとする説もあり、これは大きく南方説と北方説に分かれます。
南方説の代表は清代の詩人の袁枚(えんばい)であり、その著書「随園詩話」の中で「いわゆる大観園は、即ち余の随園なり」と記しています。また、明義(曹雪芹の親友であったとされる明琳のいとこ)も「其のいわゆる大観園は、即ち今の随園の古址である」と記しています。
実は、南京で江寧織造の職にあった曹雪芹の一家が追放されたのち、隋赫徳(ずいかくとく)が後任となったのですが、彼も数年で家産没収となり、その後、袁枚が隋赫徳の所有していた隋公園(つまり曹家の花園)を買い求めて復興し、随園と称したという経緯があります。つまり、随園は曹雪芹が若き日々に慣れ親しんだ家園であったわけです。
北方説の代表は紅学家の周汝昌氏であり、「恭王府考」(1980年)を著して、大観園のモデルは北京の恭王府(花園)であるとしました(ただし、和珅の邸宅として建てられたのは、曹雪芹の死後であるとされます)。他に、趙国棟編著「紅楼夢之謎」では、大観園の規模や情景から円明園をモデルとする説が紹介されています。
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